4
嗅覚と味覚の記憶
ぴりか、というおかしな名を持つその子を連れて帰ったのは、やはり、とっかかりが欲しかったからだと思う。
トラックを停めると、音を聞きつけた母親が、すぐに外へ出てきた。そして、助手席から降りてきた女の子をひと目見るや、
「まあ、まあ! 誰かと思うたら、うちの長女じゃないの!」
と大笑いして、また家の中に飛びこんでいく。
ふーっと息を吐き出し、肩の力を抜いて、本宮瑛一は、心の準備をする。
やがて、父親が……瑛一が12歳の時、急にいなくなり、3日前の晩、突如として帰還した父親が、母親に引っ張られて、瑛一の目の前にやってきた。
「……街へ帰る前に、会いに来てくれたのかい、我が娘。」
瑛一のほうに、遠慮がちな視線を投げかけつつ、とりあえずぴりかのほうに、手を差し出す。
「ううん。瑛一さんがおとーさんとおはなしするのに、くっついてきただけ。」
「おい、こら。」
なんて融通のきかん子じゃ。少しは話を作ることを覚えんと、大人になる時、苦労するぞ。
伸び放題になっていた髪を切り、髭を剃り、人並みの服装に戻った父親は、ぎゅっと奥歯を噛み締めているような顔で、瑛一のほうに向き直る。
「……こいつ、高校を出たら、工藤の爺さんとこで働くそうじゃ。」
ぽん、とぴりかの頭に手を載せて、とりあえずは瑛一も、ぴりかをダシにするところから入ってみる。
「知っている。昨日、彼から電話をもらったから。」
「ふん、早いな。」
目を合わせないまま、素っ気なく会話する二人を、母親は泣き出しそうな笑顔で、じっと見つめている。
「で……朝飯を食い損ねとるそうじゃ。」
と、瑛一が言うと、ぴりかは恥ずかしそうに、
「てへ。」
などと呟く。
「起きてすぐ、爺さんとこへ行って、ずーっと馬に乗っとったらしい。じゃけ……」
「ああ、それは、おなか減っとるじゃろう。もう9時過ぎとるもんねえ。さあさ、入って入って。うちはもう済んどるけど、なんやかんや残っとるけえ。さあさあさあ。」
せわしなく言い立てながら、母親がぴりかの背を押して、先に家に入る。
「……君も……チャイでも、飲んでいくかね? よかったら……」
感情を押し殺した声で、父親が言う。
チャイ。絞りたての牛乳に、茶葉とスパイスを入れて煮込んだそれを、小さい頃には、魔法の飲み物のように感じていた。母と出会う前の父が、渡り歩いた様々な世界のエッセンスが詰まった、外界への扉。
これを飲んでいる自分は、他の誰よりも、遠い世界の空気に触れながら育っているのだと、ささやかな誇りを感じていた。この男が、再びその遠い世界に、自分たちを置いてまで出て行ってしまったと知った後にも、どうにもその味だけは忘れられず、記憶を頼りに煮立てては、優や祐介にも飲ませてやっていた。
「……おれは、ここで闘うことにしたんじゃ。」
こんな風に唐突に切り出して、それで話が通じると思いこんどるところが、情の切れとらん証拠じゃな……と、自嘲的に思いながら、瑛一は言う。
「あんたみたいに、理想を他所に求めて、逃げだしたりはせん。」
「そうだな。それが……理想だな。」
絞り出すように、父親が応える。
「……当分、腹は癒えんぞ。」
と、瑛一は宣告する。
「それでいい……当然だ。」
「とりあえず、二度と、母ちゃんだけは泣かすな。」
「わかっている……ありがとう。」
そう言って、父親は、自分の息子に、深々と頭を下げる。
母屋の台所の窓から、母親が首を突き出して、完全に舞い上がっているような、テンションの高い声で叫んでよこす。
「瑛一ー! ぴりかちゃんに卵焼いてあげてー。あたしが作るより、あんたのほうが、ハイカラなのができるじゃろう。」
「あー、今行く。」
まだ頭を下げたままの父親の脇を、すっと通り抜ける。
完全に通り過ぎたところで、顔だけで振り返り、
「あの子も、飲みたいじゃろうから……4人分入れてくれ。」
と言うと、ずっと喉につっかえていた塊が、ともかく少し、小さくはなった。
→ next
http://kijikaeko-mch.hatenablog.com/entry/omake3-5