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dreamer
掲示板の前は、黒山の人だかりで、なかなかクラス表の、細かい字が読めるような距離まで近づけない。
ひとりウクレレ部長、大村鈴は、いったんメガネを外して、ぱちぱちと瞬きをする。視力、また落ちちゃってるのかな。そろそろレンズを変えに行かなくちゃ、ダメかも知れない。
ハンカチを取り出して、表面の埃を拭う。それから、もう一度かけ直そうとしたところで、
「おーっ、2組か! 一緒じゃーん!」
と、すぐ横にいた知らない男の子が振り上げた腕に、ぱんと払われてしまった。
「うわっ。」
メガネが、まるで冗談みたいにすっ飛んでいく。男の子は、それに全然気づかないで、友達のところへ駈けていってしまう。
「た、たいへんですぅ。」
鈴の視力、現在、右0.08、左0.05。けっこう複雑な乱視入り。
コンタクトレンズはどうも苦手で、うまく目に入れられない。メガネがないと、学校生活が、全然立ち行かない。
こんな人ごみで、誰かに踏みつけられでもしたら! 大慌てで、飛んでいった方向の地面に目を凝らす。よく晴れた春の朝の、まぶしい光が照りつける敷石の上に、人の影がごちゃごちゃと入り乱れて、なにがなんだかよくわからない。
こういうとき、鈴は、しみじみ思うのだ。
「すみませーん! その辺に、メガネ落ちていませんかー?」
と、ちゃんと声に出して言えない自分って、なんて情けなくて弱いんだろう、って。
滝ちゃんなら、やるだろう。それはきっと、踏んだらタダじゃおかないわよ、という、気迫の籠った声になるに違いない。聞いた人たちはきっと、背筋に冷や汗をかきなから、動きをぴたりっ、ととめて、自分の足元を、恐る恐る見るだろう。
あるいは、ぴりかちゃんだったら……
「むぎゃーっ! メガネーっ!」
とかなんとか叫んで、この雑踏の中に、四つ足で飛びこんでいくだろう。まわりの生徒たちは、なんだ? なんだ? と困惑しながら、ぴりかちゃんの前に、道をざーっと開けてしまう。そうして誰もいなくなった敷石の上に、ぽかっとメガネが出現している……
「おはよー大村さん。どうしたの?」
「はっ」
話しかけられて、我に返る。すぐ隣に、思想研究会の遊佐峰行くんが立って、不思議そうな顔で、鈴を見下ろしている。
「なんか、おもしろいことあったの?」
「ああー、またやってしまったのですぅー。」
鈴の頭の中ではすでに、架空のぴりかちゃんが、拾ったメガネを振り回して、にゃっほう、にゃっほうと飛び跳ねているところまで、シーンが進行していた。
それがとってもおもしろくて、つい、現実の自分のメガネの危機を失念して、ひとりでニンマリ、笑ってしまっていたのである。
「あれ? なんかヘンだと思ったら、メガネしてねーじゃん。」
焦りと恥ずかしさで、なにも言えずにいると、遊佐君の方から、状況に気づいてくれた。
「もしかして、コンタクトに変えた?」
「ち、違うのです。落としたのです。そのう、そこら辺に……」
「いー!?」
叫んで遊佐君は、鈴が指差した方角を、じっと睨みすえる。
それから、人ごみの中に、ぐいっ、とその大きな体をねじ込んでいった。押しのけられた生徒たちが、「うわっ」と不審そうな声を上げる。はっきり、遊佐くんを睨んでいる子までいる。
どうしよう。わたしのせいで……と、胸をドキドキさせていると、ひょこっ、と大きな笑顔が、たくさんの人の頭の上に飛び出した。
「あったー。」
それはまるで、海の中から、こちらを振り返っているみたいで……
鈴の頭の中では、すでに、幼い頃の夏の記憶の中からひっぱり出された波の音が、ざざーん、ざざーんと、効果音を務めている。
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