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生体反応
固まりになってやってくる、様々な面倒の最後を飾ったのは、尿意だった。
少年と話をしている間は、それでもどうにか我慢できたが、姿が見えなくなった途端、もう一刻の猶予もないような気がした。
かおりはハンドバッグをもって、そうっと車を出た。二度となにも落とさないように、口金をきっちりと閉めてから、駐車場を横切って、暗い雑木林の中に入りこむ。
携帯電話の灯りで、足元を照らす。かさかさと、音がする。風がどうっと吹いて、まだ樹上に残っていた枯れ葉が、はらはらと降りかかってきた。
とてつもなく非現実的だ、と、かおりはもう一度、強く思う。
こんな羽目に陥るだなんて、いったいどうしたら予測できただろう。
しばらく、辺りをうかがってから、どうか誰も通りかかりませんように、と念じつつ、できるだけ大きな木のそばにしゃがんで、用を足した。
足しながら、こんなことをするのは何年ぶりだろう、という気がした。
外でトイレをするのが、という意味ではない。おしっこなんかするの何年ぶりだろう、という気がしたのだ。それは、冷静に考えれば、馬鹿げた感想だった。出す物を出さずに生きている人間などいない。今朝も、昨夜も、その前の日も、かおりは何度もトイレに入って、用を足してきた。
それでも、実感として、そう思ってしまったのだから、仕方がない。
ポーチからティッシュペーパーを取り出して、前を拭いた。パンツとストッキングを上げて、身なりを整えてから、足元に落としたティッシュペーパーのやり場に困る。ここに残しておいたりしては、いけない気がする。
悩んだ末、ヒールのつま先で枯れ葉をかき分け、ちょっとだけ土を掘って、そこへ蹴り込んだ。それから、わからないように、もう一度枯れ葉をかぶせておいた。
靴に土がついちゃった……それに、手も洗えないだなんて。
これだけのことで、なんだか自分がどこの誰でもなくなってしまったような、不思議な気分がするのは、なぜだろう。
足元をふらつかせて、再び車に乗りこんだ瞬間、車内に立ちこめたパンの匂いが鼻を突いて、かおりのおなかが、もう一度ぐーっと鳴る。
エンジンを掛け、暖房の温度を最強にすると、すぐにあのおかしな少年に貰った紙袋に飛びついて、口を開く。
バゲットサンドのようだ。
かじかんだ手で取り出して、かぶりつく。途端に、よく知っている物の味が、口いっぱいに広がる。
缶詰のフォアグラだった。
マンションの部屋に帰り着いたのは、10時を少し、回った頃だった。
ぴりかはまだ、帰っていない。テーブルの上に、朝食の皿が、まだ出しっ放しになっている。バウムクーヘンと、クリスマス菓子のシュトーレン。それからミルク。
夜食を取りに、出かけ直そうかとも思ったが、今日はもういっぱいいっぱいな気がして、座りこんでしまう。本当に、こんなことは、かおりの手には余ることだ。
本当に、かおりひとりの手には、負えない難問なのだ。
(わたしも含めて、身の回りに、そんなに悪い人間など、ひとりもいないというのに……)
つと、ぴりかが手をつけずにいったバウムクーヘンに手を伸ばし、つかんで口へ持っていく。
もぐもぐと噛みながら、反対の手で、シュトーレンを掴む。白いアイシングが解けて、べたべたと滑る。構わず、口へ持っていく。
妙に食欲が出て、甘い物がおいしくて、もう一切れ、シュトーレンを切り取る。ものすごく大きな固まりを。
それを平らげてから、残りを全てゴミ箱に入れ、空いた皿をシンクに積み上げる。明後日には、清掃サービスの女性が来る。それまで、ここには立ち入らないことにしよう。
頭が痛い。あの雑木林で気を失っていた間に、すっかり体を冷えきらせてしまった。
鎮痛剤をミネラルウォーターで飲み下して、ベッドに潜りこむ。
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