第五話 畠山かおり、目覚めて夢を見る縁 1
親愛なるカオリ
あなた方が日本に帰ってから、8ヶ月が経ちました
もう生活は落ち着いた頃でしょうか?
ピリカはどんな様子ですか? 私も、ミシェルも、とても心配しています
先日、東京のDr.モリナガからメールを受け取りました
覚えておいででしょうが、帰国直前に、私があなたに紹介した
たいへん優秀な、信頼できるカウンセラーです
それによると、あなたも、ピリカも、
まだ一度も彼のクリニックを訪れてはいないとのことで
そこまで読んで、畠山かおりはメールを閉じ、パソコンの電源を切る。
英語を読む気分じゃない……ただ単に、そんな気分にはなれないだけだ。
こういうことって、どうして重なるんだろう? はっきりしない意識の底で、かおりは漠然と、そんな疑問をこねまわす。
浮かんでくるのは、いつもの曖昧なイメージだ。わたしは眠っている。結婚する前までずっと眠っていた、あの美しいベッドで。
目覚めたくはない。目覚めれば、学校に行かなければならない。あるいは、何かのお稽古ごとに。でなければ、夫とのデートに。もしくは、婦人会の会合に。
けれど、ひとつだけ、どうしても目を覚まして、やらなければいけない事がある。
それだけは、必要な事なのだ。今後もこうして眠り続けるためには、どんなに気が重くとも、いったんは起き上がって巻き直さなければならないネジのようなもの。
それさえ済んだら、また眠っていいのでしょうね……そう、抜け目なく確認してから起き上がったはずなのに、いったん起きたが最後、それまでずっと無視していた面倒なあれやこれやが、どっと固まりになって押し寄せてくる。
そうして、わたしを押しつぶす。
ようやく少し、気を取り直して、かおりはダイニングルームに出た。
テーブルの上に、朝食の皿がまだ出しっ放しになっている。今朝、娘のぴりかに出してやったバウムクーヘンと、クリスマス菓子のシュトーレン。それからミルク。
ぴりかはかおりの前では、お菓子しか食べない。朝はいつも、この手のものだ。あちこちから送られてくるから、ストッカーにはいつも、和洋の菓子の箱が山積みになっている。
そこから適当に選び出し、プラスティックの個包装を剥いて、ほんの少しのミルクかジュースで流し込み、開いた袋を屑篭に捨てて、学校へ出ていく。
今朝は、そうさせるわけにはいかなかった。かおりはどうしても、今日の午後、学校に行って、担任の教師と面談するその前に、ぴりかと親子らしい事をしておかねばならない、と感じた。
だから、無理をして、間に合う時間に起きた。そして、一緒に食べるために、大きなお菓子を、テーブルの真ん中へ置いたのだ。
向かい側に座って、ナイフで切り分けたのだ。
皿に載せて、目の前に出したのだ。
ただそれだけのこと。手をつけずに出ていくようなことはなにもしていない。なんにもこの子に対して、悪いことなんかしていないはずなのに。
「これ、持ってっていい? 友達と、部室で食べるから。」
そう言って、ぴりかは2つばかりの大箱を、ストッカーから抜き出して、両手に抱えて登校していった。
「いってきまーす。」
と、元気に挨拶して、笑顔で駆け出していった。
かおりにはわからない。自分の娘が、なにを怒っているのかが。
(たとえわかっても、わたしにはそれを変えられない、だから、わかりたくなんかない。)
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