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目眩
道路が混雑しておりまして、と言い訳すると、柳場という40代ぐらいの教師はにっこりと笑って、
「それは大変でしたね。お忙しいところ、わざわざお越しいただいて、ありがとうございます。」
と言い、かおりを面談室へと案内する。
こういう人は苦手だ、とかおりは思う。生徒の保護者だというだけで、その保護者まで自分の生徒のように扱う。表向きは丁寧でも、この、いかにもあなたのことは理解していますよ、とでも言いたげな、「全人の教師」的な態度が、かおりの神経を逆撫でする。
「何も、特別なことではないんです。冬休みの前に、できるだけみなさんに来て頂いて、ひとりひとりの生徒の様子などについて、お話をさせて頂いているだけで。」
「はあ……」
できるだけ、なにも気にしていない振りで、ぼんやりした返事をする。
「ぴりかさんは、学校生活について、おうちではどんなお話をなさっていますか?」
「ええ。そうですね。とても楽しいようなことを言っていまして、わたくしも安心しております。成績のほうは、あのままではどうも、とも思いますけれど、今はあの子が、他のお友達と楽しく過ごしてくれることがなにより大事ですから、頑張らせるにしても、もう少し先でもいいだろう、というのが、北海道にいる主人の意見でもありまして……」
「そうですか。お父様も同じご意見ですか。」
にっこり笑ってそう言いながら、柳場先生は大きく頷く。
「本当に、私が見ましても、元気になりましたね。」
「ええ……」
「お友達も、とても多いようでしてね。休み時間になると、他のクラスの生徒がたくさん、ぴりかさんとお喋りにやってくるんですよ。上の学年の生徒も、男子も女子もいて、それはそれはにぎやかで……」
「はあ……そうなんですか。」
「クラスでは、福岡滝さんという生徒と、いつもとても仲良くしています。たいへんしっかりした、優秀な生徒で……お名前、聞いたことは?」
「あっ、はあ……ありますね、ええ、ございます。」
「若い方の回復力は、たいしたものですねえ。」
「ええ……。」
相槌が続かなくなってきたので、かおりは黙りこむ。笑顔だけキープして、斜め下を向く。
それで、相手も、出方を改める。
「北海道……と仰いましたかしら、先ほど……」
「ええ……本当は、向こうで、家族が一緒に生活できたらいちばんなんですけど……そのう……」
言いよどみながら、かおりは無意識に、優先順位を考える。なにをいちばん隠すべきか。どちらを知られるのが、より危険であるのか。
「あちらに、いいカウンセリングの先生が、なかなか見つからなくて……」
「カウンセリング……?」
「ぴりかのカウンセリングです。あんなことがありましたから、帰国してもしばらくは通った方がいいでしょうって、アメリカにいた時にお世話になった精神科医が……ほら、あちらではみなさん、なんでもないようなことでも、よく精神科へ参りますでしょう? どのお宅にも、そういうなじみの先生がいて。それで、わたくしたちもそういうお知り合いがあったんですけれども、その方が、いい先生を紹介して下さったんです。それがちょうど、このあたりにお住まいの方で……わたくしの実家も近いし、それならしばらくの間、こちらに住もうということになって……」
「ああ、そうでしたか。今もまだ……?」
「ええ。もう、ほんの時々なんですけれど。2ヶ月に1回くらい。それでも、こういうことは、継続がなにより大切でして……」
「ああ、そうなんでしょうねえ。うちにもスクールカウンセラーが常駐しておりますけど、最近は本当に、こういう事が大切になってきましたねえ……」
長い台詞を喋ってやったせいで、相手が打ち解けたつもりで、馴れ馴れしくなっている。それを意識の片隅で、腹立たしく感じながらも、もう一方では安心している。これでもう、この人から痛めつけられる心配はない。
「いえ、お聞きしようと思ったのは、ぴりかさんのお名前のことなんです。ご実家が北海道ということは、もしかして……?」
「ええ……そう、アイヌ語です。」
「美しい、という意味でしたね、確か。」
「そうです。主人の父が、あちらで議員をしておりまして……」
ちょうど選挙の時に、あの子は生まれた。
取り込む必要があったのだ。そういう人たちの票を。
「……立派な方で。アイヌの方々とも、たいへん親しい間柄でいらして。」
「まあ、そうなんですか。でも、本当にぴったりのお名前ですね。ぴりかさん、かわいらしくていらっしゃるから……。」
にこにこと、鉄壁の笑顔を崩さない教師の言葉に、お世辞やお愛想があまり入っていないことが、なぜかかおりの腑に落ちない。
あの子のどこが、そんなにかわいいのだろう。
面談を終えて、立ち上がるなり目眩に襲われて、テーブルに腰を打ちつけてしまう。
「あらっ。どうなさったんですか。」
くわぁーん、と一斉に蚊の鳴くような、やかましい耳鳴りの向こうから、教師の声が、かすかに聞こえる。
「畠山さん、畠山さん、大丈夫ですか。」
「ああ……すみません。少し……貧血気味で……」
睡眠不足のせいだ、とかおりは思う。今朝あんなに早起きして、ぴりかが出た後にもう一度眠ってから出かけようと思っていたのに、あんなメールのせいで神経が昂って、一睡もできなかった。
ようやくうとうとしかけたころに、セットしておいた目覚ましが鳴ったのだ。起き上がるのが、泣きたいくらい辛かった。
必死で感情を堪えていると、つと、額に温かい手が置かれた。
「お熱はございませんわね。」
柳場という教師は、そう言って、かおりの顔を心配そうに覗きこむ。
「でも、お顔が真っ青。少し、保健室で休んでいらしたら?」
すこし、ほけんしつでやすんでいたらしたら?
その言葉で、一瞬だけ、意識が過去に連れ戻される。
わたしはまだ、教師にそんなふうに言ってもらえる年頃の娘なのだろうか? だとしたら、ここから違う道を選び直すことが可能だろうか? この人は、わたしに、自分の道を選ばせてくれる教師だろうか?
けれど、テーブルの上の自分の手を見て、それが幻想に過ぎないとすぐに悟った。来年、40歳になる女の手。薬指で輝く、大粒のダイヤモンド。わたしはすでに成人している。生徒の母親であって、生徒ではない。
「いえ……大丈夫です、もう……。よく、あるんですの。でも、たいした事じゃありません。」
微笑んで、しゃんと背中を伸ばしてみせる。
「大丈夫ですか、本当に?」
「ええ。すみません、驚かせてしまって。でも、こんなのはしょっちゅうなんです。立ち眩みが起こりやすいだけで、いつもすぐに直るんですよ。」
できるだけ明るくそう言って、なんとか教師から離れることに成功する。
来校者用の玄関を出て、駐車場へ戻る途中に、またしてもひどい耳鳴りに襲われる。
どうしてこんな設計になっているんだろう、と、かおりは頭の中で悪態をつく。きちんとした家の子供ばかりが通う、きちんとした学校なら、父兄が車でやってくる時のことを考えて、ちゃんと玄関まで車を乗りつけられるようにしておくべきだ。どうしてあんなに離れたところに駐車して、こんな里山の坂道を、上り下りしなければならないのか。
しばらく立ち止まって、こめかみを揉みながら、治まるのを待つ。けれど、今度はもう、ひどくなる一方だ。頭から血の気が引いて、目の前が真っ暗になる。動悸が胸に痛い。足に力が入らない。
どちらがより、簡単だろうか。ここで倒れてしまうことと、どこかに隠れて、治まるまで座っていること。
座れるようなところはない。道の両側は林で、下は地面だ。地面に座りこんだりするわけにはいかない。
けれど、ここで倒れれば、きっと学校に運びこまれる。もう一度、あの教師と顔を合わせて、根掘り葉掘り聞かれるようなことにもなりかねない。
やむを得ない……もう、今にも気を失いそうだ。一刻も躊躇しているひまはない。前後に人影がないのを確認してから、大きな木の後ろに回りこみ、乾いた枯れ葉の上に腰を下ろして、目を閉じる。
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