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遠野くんは、それはそれはいい少年でした。
(よーするに、罪悪感……かな。)
朝の教室で、机にファッション誌を広げて眺めているふりをしながら、滝はぼんやりと考え続ける。
(……部活入るか入らないか、なんて、完全に個人の自由じゃん……遠慮してくれない? だって。ばっかみたい。そんなにあたしと一緒の部が嫌なら、自分たちが入らなきゃ、それですむ話じゃないの。どうせ作品なんかほとんど作んないで、噂話してるばっかりのくせに、お嬢様ぶって、手芸部に入ってますの、おほほ、なんて言うだけの奴らために、あんな、立派な設備……もったいなさすぎる……)
そこまで思っても、やはり、滝は入部届を出せなかった。
三角形に固まった女の子たち。
その先頭で、目に涙を貯めて睨みつけてくる風花の、妙に正義感に満ち溢れたような表情が、頭から離れない。
(……あたしがつき合ってようが、断ってようが……どうせ遠野はてめぇなんか、最初から気にも留めてなかっただろっ。別れたんだって、別にあんたにゃなんの関係もないでしょうが。『人の心の痛みがわからないような人の作るもの、あたし絶対認めない』だって。アホか。自分で何か作ってから言え。精神論唱える奴に真のクリエイターはいねーっつーの!)
荒々しい言葉で罵って、ぶるんと一度、首を振る。切りそろえたおかっぱの髪をかきあげて、思考を雑誌に集中しようとしたのに、めくったページに写っていた男性モデルの顔を見たら、今度は遠野くんのことを思い出してしまう。
実際、悪いことしちゃったよなあ、と……。
そこだけは、どうにも反論のしようもない滝なのであった。
いい少年だった。じっつにいい少年だった。肚に一物ありそうな口調で、いやーあんたってホントにいい人だねーと、言わずにはいられないようなそういうような意味で、真実、よくできた少年だった。
野球部のレギュラーで、成績もよく、教師たちの覚えもめでたく。
短く刈った髪の毛の下の、日に焼けた笑顔は申し分なくチャーミング。いつもクラスの男の子たちの真ん中で、真っ白い歯を見せて、冗談を言い合って笑っているような、そういう種類の男の子。
お父さんは町の開業医。お母さんは専業主婦だけど、アマチュア画家で水彩画を描いていて、よくタウン情報誌なんかに文化人みたいな顔をして、きれーな写真が載っている。そういうご一家のご長男。
つき合ってもいいよ、と滝が返事をすると、彼の友人たちの間に、たちまちほんわかとした祝福ムードが広がった。野球部の後輩たちから「よかったっすね!」と声をかけられて、照れ笑いで頭をかいている姿を見ると、なんかかわいい、と思って、滝もちょっと、顔がほころんだりもした。
二人で一緒に校内を歩くと、ぱーっと前方に道が開いた。「わ、野球部の遠野先輩と……」「手芸部の福岡先輩」「らぶらぶー」「おにあいー」「いいなー」
分かれ道までの、ほんの半キロばかりを一緒に帰るための、玄関前での待ち合わせ。めんどくさいし、なんか、時間の無駄じゃん? と言うと、「でも、つき合ってるんだから」という、よくわからない理屈が返ってきた。
一日に何通も届くメール……。『今なにしてる?』って、そんなこと、なんでいちいち説明しなきゃいけないの? でも、文章を打つのに興が乗った時には、滝も長い返事を返したりした。『ロックミシンぶっ壊れて最低! モーターいかれてんの 修理すむまで裁断できないから今日はもう寝よーとしてたとこ よいこの遠野くんにお風呂上がりの滝ちゃんの写真を送ってあげやう!! おやすみー』
クリスマス・イヴに手渡された、お揃いのシルバーのリング。「学校にいる時以外は、ずーっとつけてて欲しい。俺も、冬休みの間、ずーっとしてるから……」このプレゼントの直後、ファースト・キスと相成ったのは、別に嬉しくて感極まったと言うよりもむしろ、思わず引いてしまった自分に、すでに罪悪感のようなものが芽生え始めていて、その罪滅ぼしとして、相手が持っている「クリスマスかくあるべし」という固定観念に従って行動してみました……という意味合いが強かったように思う。
だったらそれ以上、罪を重ねるな!!
と、つっこんでくれるような女友達が、ひとりでもいれば良かったのだが……。
破局は、卒業前に訪れた。
滝はすでに、遠野くんの全身から発散される「高等部に行ってもずっとずーっと一緒にいようね光線」を受け止めるのに、疲れ果てていた。
春休みに一度、うちに夕飯を食べにきて欲しい、と言われた時にはだから、しょっぱなから不機嫌な声で受け答えしてしまった。
「なんで?」
「お母さんが、一度、滝に会ってみたいって言うから。」
「はあー!?」
なんじゃそりゃー!? と言うのが、滝の正直な感想だった。お母さん? なんで親が出てくるの? あたしとあんたがつき合うのに、なんか許可でもいるの? そのために、あたしがわざわざ、きちんとしてご挨拶に行かなけりゃならないというわけ!?
後はもう、坂を転がり落ちるように、売り言葉に買い言葉、激しい感情のぶつけ合い、罵り合い、すれ違い。
仕舞いには、遠野くんは泣きだした。泣くな、男が! と、滝は最後の最後まで引きっぱなしで、取り乱した遠野くんが「ごめんね、もう挨拶しろなんていわないから」と取りすがったり、「あんなに約束したのに、こんな些細なことで別れるなんて卑怯だ!」と怒ってみたり、混乱するのを思いっきりの軽蔑のまなざしで睨みつけて、
「永遠に、ばいばい。」
と言い捨てて、後も見ないで捨ててきたのだった。
(人の心の痛みもわからないような人の作るもの、あたし絶対認めないから!)
うるせーよ、バカ。わかるわよ、痛みくらい。あって当然なのよ、生きてんだから。
あんたたちみたいにお仲間ごっこで、できるだけそれを都合良く避けて生きていこうだなんて、腐った根性の持ち合わせが、あたしにはないだけよ!
……って、だめだ、もう。集中してらんない。
がしがしと、頭のてっぺんをかきむしってから、滝はぱたんと雑誌を閉じて、その上に突っ伏してしまう。
これからどうしよう。あたしまだ、作りたい服が山ほどある。
作るだけならもちろん、自分ちの設備だけでもできるけど、いったいどうやってそれを、世の中に発信していったらいいんだろう……。
そこへ、がらりと扉の開く音がして、担任の、柳場良子先生が入ってきた。
とてもとても小さな女の子を、ひとり、肩を抱きかかえるようにして、連れて入ってきた。
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