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女友達いないタイプ
「はい、みなさーん。お席についてー。」
立ち歩いていた生徒たちが、ばたばたと自分の座席に帰る。
起立、礼、着席はしない。柳場先生の主義だ。この学園では、教師個人の裁量で、そういうことをクラスごとに、自由に決めていいことになっているらしい。
体型はややふっくらしているものの、とてもバランスがよく、いつでも趣味のいいスーツを、自信たっぷりに着こなしてくる。服装で人を見る癖のついている滝も、この先生はわりとアタリ、という評価をつけていた。授業もわかりやすく、保護者の受けも良い、桃李学園の名物教師のひとりだ。
「クラスメイトの、畠山ぴりかさんです……みなさんと一緒のスタートのはずでしたが、ご家庭の都合で、アメリカからの帰国がほんの少し遅れて、半月遅れの登校になりました。みなさん、いろいろと教えてあげてください。……畠山さん。」
ぽんぽんと肩を叩きながら、かがみこんで、女の子の顔を覗き見る。
「自己紹介、できる? お名前だけでも、言えるかしら?」
しーんと、教室が静まり返る……。女の子は明らかに、普通の状態ではないようだった。じっと俯いたまま、ぴくりとも動かず、一言も喋らない。
柳場先生は無理に喋らせようとはせず、うんうんと、少し哀れむような表情で小刻みにうなずいて、
「じゃ、席に着きましょう……こちらですよ。」
と言って、滝の左隣、窓際の一番後ろの座席に、女の子をひっぱってくる。
座る直前、一瞬だけ、もつれた茶色っぽい髪に隠れた女の子の表情が見えた。
見た途端、滝の心臓は、ぎゅうっと縮み上がった……真っ白な肌。まるで妖精みたいな、つんととんがった鼻先と、ちょっと拗ねたように尖らせた、形のいい小さな唇。そして、ぽかんと開きっぱなしの、ブラックホールみたいに黒々とした瞳。
全てのパーツが、とてつもない悲しみを表しているとしか、見えなかった。この子はなにか、ものすごい心の痛みを抱えて、口がきけないんだわ……。
そんな印象に打たれて、滝はしばらく、呆然とした。
ちょっと失礼しますよ、と言って、柳場先生は廊下に出る。そこで誰か、教室の様子をずっとうかがっていた大人の女の人と、話を始める。
おそらく、この子のお母さんだろう。遠目にも滝は、この女性の顔に、女の子と同じ種類の悲しみが、ぺったりと張りついているのを認める。
それと、この親子が、かなり上流の家の人たちらしい、ということも、なんとなく察せられた。お金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんが大勢集まるこの学校では、生徒たち同士もなんとなく、お互いの家の格付け、みたいなことに鼻が利くようになっている。あのスリーピースの生地といい、シンプルな、でも大粒の真珠のイヤリングといい、ハンドバッグといいメイクといい……相当、金も地位もある家の、専業主婦の奥様っぽい。
「しっかりした、優しい子たちばかりのクラスです……どうぞ、ご安心なさって……」
という柳場先生の声が、とぎれとぎれに教室の中まで入ってくる。
ハンカチで、そっと口元を押さえながら、女の人が深々と頭を下げるのを、クラスの全員が、ガラス越しに、無言で見守る。
滝が振り返ると、小さな女の子はもう、机の上に突っ伏して、眠ったように固く動かなくなっていた。
面倒見てやんなくちゃ……と、滝はなぜか、直感的に思った。
この子の痛みは多分、あたしみたいなヤツでなきゃ、かえってわからないんだわ。
最初の3日ばかり、ぴりかは机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
週末を挟んで、遅刻して出てきた月曜日あたりから、少し顔を上げて、窓の外を、ぼんやりと眺めるようになった。
滝は隣で、時折その様子を眺めながら、授業を受けた。休み時間には、自分の机でできる、細かい手作業を続けた。刺繍。ビーズつなぎ。パッチワーク。チャイナボタンの作り置き。
そうして眺めていると、滝にはわかった。
この子は強い。どんな悲しいことがあったか知らないけれど、このままで、負けてしまうつもりはないらしい。今は多分、充電中なのだ。
背中から、生命力みたいなものが、もやもやーっと立ち上ってくるから、わかる。
1週間すぎた頃には、ぴりかは背中を起こして、ぼーとした顔で、自分のまわりの世界をきょときょとと見回すようになった。
まるで、どうして自分がこんなところにいるのかと、訝しがっている様な表情だった。
「……どうよ、調子。」
と、滝は、ニットの帽子を編む手を止めないままで、ぞんざいに話しかけてみる。
「うん。」
と応えて、ぴりかは首をこきこきと回した。甲高い、耳障りな響きのする声だった。それから滝の方を振り返り、ぼーっと見つめてから、言った。
「名前なんて言うの?」
「福岡滝。」
「タキ。女の子の友達できないタイプだね。」
「…………。」
しょっぱなから何を言う。滝が少々、むっとしたような無表情で見返すと、ぴりかはへらへらと笑いながら、
「オイラもそう。」
と言い、それから、ふわぁーんと大きなあくびをした。
「いっぱい寝たら、ハラへっちた。」
そして、椅子にかけてあったリュックサックをごそごそとかき回して、中からお弁当袋を取り出した。
中身は、キュウリだった。
キュウリしか入っていなかった。小さめの、曲がりキュウリばっかりがびっしりいっぱい入って、200円、の値札がついたビニール袋。
滝が見ていると、ぴりかは筆箱の中からシャープペンを取り出し、それで袋をえいっとばかり突き刺して、ぽちっと穴を開けた。そこからばりばりと破いて、机いっぱいにキュウリをぶちまけにして、一本ずつ、ポリポリとおいしそうにかじり始める。
クラスの生徒たちが、ちらちらと、それを見ている。
「……洗わないの?」
と、滝は、だるい声で尋ねる。
「いい。めんどくしゃいから。」
「人生なめてるでしょ、あんた。」
そうつっこむと、ぴりかはキュウリでいっぱいの口を開けて、
「ぎゃははははっ」
と、けたたましく笑った。
その笑い声を合図に、こちらの様子をちらちら窺っていたクラスメイトたちの注意の波動が、ふつん、と、一斉に途切れる。
(あそこは、変わった人たち同士でまとまったみたいだから……もう我々の方は一切、関わらないでいきましょう)という、暗黙の了解みたいなものが、教室の空気に、網のように広がっていくのが見える。
この疎外感が、この瞬間の滝には、奇妙に心地よく……また、なにか人生の、テツガク的(?)な意味で、ひじょーに理に適ったものに思えた。
こうして二人はお互いに、貴重な同性の友人を得る。
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