7
魚の噴水と菜園
「はい、こっからペースダウンー。」
それほど長い距離を行かずに、ランニングは終わる。呼吸を整えながら歩いて、二人は再び、桃園会館まで戻ってきた。
ライオンのドア・ノッカーのついた扉を通り過ぎ、建物の裏手に回る。
途端に、紗鳥は、別世界にいた。
「うわ……あー」
そこはまるで、楽園のようだった。
生け垣に囲まれた、広い中庭。入り口の両側には、こんもりとした葉を茂らせた木が二本……紗鳥はあまり詳しくはないが、多分、桃かアンズだろう。それらしきまだ青い実が、花の終わった後の梢にたくさんついている。
中央に、丸い噴水の池。ぽかんと上向きに、口を開けた魚の像があり、その口から水が一筋、吹き上げられて、水面に浮かぶ蓮の葉に、細かいしぶきを散らしている。
葉陰に、まだ固い、蓮のつぼみ……花が咲いたら、どんなにきれいだろう。
そのまわりは全て、畑になっていた。
こんなに美しい畑は、見たことがない、と、紗鳥は思った。
たったこれだけのスペースで、よくもまあこんなに、たくさんの種類の作物が作れるものだ……というくらい、様々な野菜が生い茂っている。でも、決して無理に詰め込まれたような、狭苦しい印象ではなく、みんなゆったりと成長して、生き生きしている。空気がおいしい。
しんと、静かな感動の中で、ゆっくり深呼吸をしていたら、
「むぎゃーっ!!」
と、けたたましいピエロの悲鳴が聞こえて仰天する。紗鳥が噴水に見とれている間に、どこかへ消えてしまっていたのだ。
「いい加減に学習しろ、演劇部長……僕は、同じことを何度も言うことは好まない。」
「ごめんちゃい! 離してぇ、園芸部長、はなしてぇぇぇー。」
がさりと背後の茂みが揺れる。2メートルほどの高さに張られたネットに、大きな葉と、小さな黄色い花をたくさんつけた蔓が、びっしりと巻き付いている。
その陰から、ジャージ姿の背の高い男が、ぬうっと現れた。
昨日の不気味な3人組の、最後のひとり……。着ぐるみでもなければ、メイクもしていない、今と同じ素のまんまだったのに、一番強烈に怖かった、あの幽霊男。
ピエロは、男の小脇に、まるで荷物のようにがっちりと抱えられて、足をばたばたやってもがいていた。手には、まだしぼみきっていない黄色い花をつけたままの、見事なキュウリを握っている。
「ん……君は、誰だ。」
紗鳥を見つけて、なにか、台本棒読みのような平坦な口調で、そんなふうに問いかける。
「あ……あの……あたし、は……」
「ああ。昨日の被害者か。」
そっけなく、自己完結的に呟きながら、ピエロの手から、力ずくでキュウリをもぎ離す。
「ふにゃー!! きゅうりィィィィィ」
「欲しければ、食べてもいい。が、それは僕が、僕のこの手で収穫した、その後に、分け与えてやる分だけだ、と、何度も言ってあるはずだ。」
なんだこの人の、この回りくどい喋り方は……。異様に長い顔の中の、機械的に動く薄い唇を見つめて、紗鳥は呆然とする。
ぽいっ、と幽霊男は、ピエロを生け垣の外へ放り投げる。
ペタっ、と四つ足で着地して、ピエロは猫のように振り返り、
「けちー!!」
と捨て台詞を残して、四つ足のまま逃走した。
「あっ、あの……」
追いかけようとして、ちょうど振り向いた幽霊男と、真っ正面から向かい合う。
紗鳥より、10センチは背が高そうだった……。普通の女の子が、男の子の顔を見上げるときって、どんな感じなのかなー、なんて、よく夢想した……と言うか、今もしょっちゅう、する……から、
(あーなるほど、こういう感じ……)
と、一瞬、その夢想に浸りそうになった。
けれど、そんな夢想は、まるでお門違いだった。
幽霊男は、不気味な無表情のまま、紗鳥の顔をしみじみ眺め、
「哀れな……」
と、ひとりごとのように呟いて、再びキュウリのネットの向こうへと消えていった。
あたたかな日だまりの中で、紗鳥は自分のまわりの空気だけ、突然零下になったような気がして、ぶるっ、と身震いをする。
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