8
決壊
ピエロを捜して、紗鳥は再び、桃園会館の正面玄関にたどり着く。
ライオンのドア・ノッカーのついた扉の前で、ピエロはおいちにい、おいちにい、と元気に体操をしていた。ついさっき、あの幽霊男にこっぴどく怒られたことなんて、もう覚えてもいないみたいだ。
追いついてきた紗鳥を見つけると、
「適当に体、ほぐしてね。」
と言って、地面にぺたんと足を伸ばした。180°開脚。そこから胸が、ぺたっ、と地面に届く。
「……柔らかいですね。」
と、感想など述べてみたが、返事はない。それで紗鳥も、負けじとぐいぐい筋肉を延ばしていく。
「腹式呼吸って、わかる?」
と、ブリッジをしながら、ピエロが尋ねる。
「吸うときに、胸じゃなくて、おなかが膨らむの。吐くときに、凹む。」
「知ってます。」
「一音節ごとにそれをしながら、発声練習。」
ひょいと立ち上がって、腰に手を当てて、叫ぶ。
「あ・え・い・う・え・お・あ・お
か・け・き・く・け・こ・か・こ
さ・せ・し・す・せ・そ・さ・そ
た・て・ち・つ・て・と・た・と」
至近距離だったので、紗鳥は思わず、耳を手で覆ってしまった。すごい声量。こんな小さな体のどこから、こんな音が出せるんだろう。なんか、セミみたい。
一音ごとに、腹筋がきゅっきゅっと収縮するのが、だぶだぶのピエロの服の上からでもわかる。
ピエロはそれから、「あめんぼあかいなあいうえお」だの、各種の早口言葉だのを、同じポーズで発声し、腰をひねりながら「バカヤローっ!」と怒鳴ることを10回繰り返し、最後に「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ」を息継ぎなしで言い切って……
「おしまい。」
と言うと、唖然して見ていた紗鳥をそこに置いたまま、桃園会館の中へ、ぷいと消えてしまった。
「……え?」
さわさわーっ、と林の方から、さわやかな風が吹いてくる。
おしまい?
おしまいって、おしまい?
で、あたしこれから、どうすれば?
一人、なすびのコスプレのまま、紗鳥は立ちすくむ。
一緒に来い……とかは、別に言われなかった。もう、用はないの? というか、これって、なにかの用だったの?
紗鳥の鞄も、制服のスカートも、あのおかしな衣装だらけの部屋に置きっぱなしだ。今からひとりで、勝手に取りに入って、勝手に着替えて、勝手に帰ってもいいわけ?
混乱した頭で、ライオンのドア・ノッカーを、じっと見つめる。
古びたライオンは、まるで、紗鳥に問い返しているように見える。
今、この建物に、入るか、入らないか……
それを決めるのは、お前自身ではないか?
ここから、どうしたらいいんだろう……と、考えて。考えて。考えて。
そうしたら紗鳥は、そもそも、今日という日の始めから、自分ではなにひとつ、決めてこなかったことに気づく。
次々に、おかしなことがふりかかって……その度に、慌てふためいて、いいように流されてきた。来いって言われて断れず。この服着ろって言われて断れず。走れって言われて断れず。
断っていたらよかったの? 断って、どうしていたら正解だったの?
部活に行けばよかった? ランニングには置いていかれ、組を作ってやる柔軟体操では必ず外され、トスはまわしてもらえず、コートにいると、なぜか後頭部にばかりボールが飛んできて……全然、バレーボールの練習ができないバレーボール部でも、やっぱり行けばよかった?
否。
そもそも、この学校に入ったのは、ほんとうに自分の意志だったのだろうか?
チームメイトのうち、3人は、中学からそれほど遠くない公立高校に入学した。そこのバレー部も、桃李学園ほどではなくても、かなりの強豪で、紗鳥が尊敬していた先輩も、予選で顔見知りのライバルも、何人も入部していて、夏までは紗鳥も、その高校を受験するつもりでいた。
なんであたし、こんなところにいるんだろう……
(なに言ってるの、さっちゃん! こんないい話なのに!)
でも、おばあちゃん。友達が、ひとりも行かないんだよ。
(友達なんか、新しいのが、すぐにできるでしょう)
お母さん……お母さんも、いい話だって思う?
お母さんは、すぐにはなにも言わなかった。
ただ、おばあちゃんがいっぱいいっぱい喋った後で、遠慮がちに、ひとりごとにみたいに、ぽつんと呟いた。
(さっちゃんが、立派になってくれたら……嬉しいけど……)
その時紗鳥は、自分の頭から、すう、となにかが、抜けていったような気がしたのだった……。
きっ、とライオンを睨みつけて、紗鳥は心を決める。
これから、なにが起きるにしても……ともかく、制服と、鞄を取り返そう。バレー部をやめるにしても、続けるにしても、ここでこんな風に、立ちすくんでいちゃダメだ。
何とも対決しないで、流されてっちゃダメなんだ。
ドアノブに手をかける……ぎぎぎーっと、ハデな音。
ホールの真ん中に、猫が座っていた。
灰色の縞模様。白い手足に、長い立派なしっぽ。薄暗闇の中に、緑色の目が光る。可愛げのない声で、ニャーと一声鳴いてから、立ち上がって階段の裏へ、すたたたたた……と歩いて消えていく。
臆病な心臓を宥めながら、ぎしぎしと軋む階段を上る。演劇部、と看板のかかったドアをノックして、すうっと息を吸いこんでから、開ける。
「スリー・フォー!」
がががーん、と大音量のハードロックに出迎えられて、もうなにがあってもびびらない、冷静に、毅然と対処してやる、と思っていたのが、ぼろぼろと崩れ去りそうになる。
部屋の奥の一隅に、昨日と同じメイクアップをした八雲くんと、おそらくはまた、衣装替えをしたのだろう、あのチビの女の子が今度はかえるの着ぐるみ姿で、エレキギターをかき鳴らしながら、紗鳥の知らない洋楽を絶叫している。
「あーいあーまーあんちくらぃっすと! あーいあまーらなーかいっ」
「うるっさああああああああい!!」
キイィィーン……、と、アンプからの残響が消えていった後の静寂に、歯を食いしばりながら感情を押さえる紗鳥の、荒い息づかいだけが響く。
「……結局……」
かっと血の上った頭から、一生懸命、言うべき言葉を探す。
「結局、なんだったんですか。なんの用で、あたしはここへ呼ばれたんですか。からかいに? あたしがバカだから、自分で自分のこと決められない、流されっぱなしのバカだから、おちょくってやろうとでも思ったんですか!?」
「……ちょっ、ちょっと待て内田。なに泣いてんだてめー。」
パンク鬼の八雲くんが、あたふたと自分の楽器をスタンドに立てかけて、紗鳥のほうへ駆け寄ってくる。
「な、なんか、ひどいことしたか? 俺。あ、もしかしてまた、ぴりか先輩に、なんか、かまされたのか? 先輩!?」
「な、な、なんもしてなーい!」
心底、仰天したような声を出して、緑色のかえるも駆け寄ってくる。
「あ、あ、あたし、ほんとに、一緒に走って、発声して、それだけだもんっ。ひどいことしてないし、おどかしてないし、いぢめてないし、し、し、そそそ、た」
紗鳥の周囲を、ぴょんぴょん横っ飛びで旋回しながら、手をばたばたやって必死で言い訳している。
「ちょっとお、なによこれ! ゴーヘー!!」
後ろのドアから、さっきの福岡という先輩が入って来て、怒鳴る。
「あんたまさか、また……」
「ちっ、ちがっ。やってないす俺なんにも」
「じゃあなんでこの子泣いてるのよ!」
「俺にもなにがなんだか……。内田……内田、ゴメンな。俺、説明不足だったかも知れないけど、ホントにそんな、お前のことおちょくろうとか、そんなことぜんっぜん考えてないから……泣くなよお、頼むからあー。」
本当に、困りきったような口調でそう言いながら、また紗鳥の肩に手をかけて、ぽんぽん叩いてくれる。福岡先輩がなにか、そこらへんにあった布の切れっぱしで、紗鳥の涙を拭ってくれる。
かえるはまだ、旋回している……。あわ、あわ、あわあわあわあわ、とか言いながら、やっぱり困りきったような表情で、紗鳥の泣き顔を伺っている。
なんなの、この人たち……まるで……まるで優しい、いい人たちみたいじゃないの。
もう、自分の感情が、ああなって、こうなって……とか、そんな経緯はまるっきりちんぷんかんぷんで、どうでもよくなって。
ただただ、紗鳥は泣いた。これまでずっと、泣かずにがまんして来た分の涙を全部、このおかしな建物の中で、このおかしな人たちの中で、
出してもいいよ。
と、言われたみたいで。
安心して、あんあんと泣いた。
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