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ほんとうのこと
ボーンチャイナのティーセットに、香り高い紅茶。
ピッチャーにはたっぷり、クリームの濃いミルク。フランス語の書かれた紙箱から取り出された、茶色いお砂糖の固まり。
ウェッジウッドの菓子皿には、風月堂のゴーフルと、メリーズのマロングラッセと、うさぎやのどら焼きと、色とりどりのマカロンが山盛り。
「……どうして、こんな部屋があるんですか。」
泣き止んで、少し気分の落ち着いた紗鳥は、まず最初にそう質問する。
「大道具置き場なの。もう何年も前、まだこの部に活気があった頃、なんか、お屋敷ものの劇をやったらしいわ。」
「はあ……」
ため息をついて、紅茶をひとすすりし、改めて、あたりを見回す。
つやのある大テーブルは、多分、マホガニー。ペルシア絨毯に、猫足のカウチソファ。頭がついたままのしろくまの毛皮は、どうやら作り物のようだけれど、壁にかけられたシカの角付きの剥製は、本物っぽい。
芝居の大道具、というよりは、本物のアンティーク家具だ。まだ納得しかねている紗鳥の表情を見て、福岡先輩が補足してくれる。
「まあ、金持ちの多い学校だからね。自分の家の物置で、ホコリ被ってる家具でももらってきて、いらないからそのまま置いてった、ってとこじゃない? 作るより楽よね。」
「その、冷蔵庫とか、電子レンジとかも……?」
「わかんないけど、多分ね。歴代の部員の置き土産だと思う。」
「これ、これはね、よーこ先輩が置いてったの。」
ぬっ、と信楽焼の狸が、背後から顔のすぐ横に差し出されて、紗鳥はぎょっとして首をすくめる。
ペンキだらけの制服姿に戻った『ぴりか先輩』が、重たげな焼き物を、顔を真っ赤にして、一生懸命に持ち上げて、紗鳥に見せてくれていた。
「かーぜーにふっかれってぶーらっぶら♪」
「見せなくていい。」
福岡先輩が、紗鳥の代わりに鋭くつっこんでくれる。
「……こんな非常識な連中だから、まあ、なにかとびっくりしたとは思うけど。」
と、ぴりか先輩と、八雲くんのほうに顎をしゃくって、福岡先輩が言う。ご自分は入ってらっしゃらないんですね、と紗鳥は、口に出さずに思う。
「どうかな? もう、こんな目にあっちゃった後で、無理にとは言えないけど……。でも、入ってくれるとありがたいのよ、部費も削減されずにすむし。一応この学校、掛け持ちが2つまで認められてるから、バレーボール部辞めたくないなら、名前だけ貸してくれるだけでも助かるんだけどな。それと、文化祭の時、あたしのモデルだけでもやってくれれば。ぴりかじゃ背が小さすぎるのよね。あたしだって、たまには標準受けするもの作ってみたいし……」
「ちょっ、ちょっと、待って下さい。いったい、なんの話ですか?」
「ん?」
互いの、わけのわからない顔をまじまじと見合ってから、福岡先輩はじろり、と八雲くんを振り返る。
「ゴーヘー、あんた、なにも説明してないね?」
「はい?」
と八雲くんが、間の抜けた返事を返す。この重厚なセットの中で、白塗り金髪逆立ち、パンクな衣装のままで紅茶をすするその姿は、免疫のない紗鳥の目には、めまいがするほど異様に映る。
「いや、だって……別に何か説明するようにとは言われてなかったし。」
「言われなきゃーできないようなことかぁ!?」
「えー!? そんなもん、したら却って、ついてこないに決まってるじゃないすかー。とりあえずひっぱりこんじゃえばいいよって、ぴりか先輩が」
「の、ののの、のーのーのーのー!」
マカロンを口いっぱいに頬張ったぴりか先輩が、ぶんぶんと必死で首を横に振る。
「……あんたらに任せたあたしがバカでした。」
と言って、福岡先輩は、わりとあっさり追及の手を弱めて引き下がる。多分、こういう事態に慣れているのだろう。
「……じゃあ、改めて説明するね。実は演劇部って、衰退の一途でさ。去年、3年生が引退した時点で、部員が、あたしとぴりかの二人だけになっちゃったのよ。今年の新入部員も、4月にはゼロだったから、一学期中にあと3人見つけて5人にしないと、部として存続はできても、部費はおりないのよね。で、まああちこち探して、2年生にひとり、名前だけ貸してくれる幽霊部員を見つけて。あと、ぴりかとトレードで、このゴーヘーが、軽音部とのかけもちを引き受けてくれて……」
ちゃっ、と八雲くんが、手をあげて見せる。
「それで、あとひとり。誰か、入ってくれる子がいないかなー、って話をしてたら、昨日、偶然あなたが、ここを訪問してくれた、というわけで。」
「はあ……」
訪問……と、言うのだろうか、あれは。
「入ってくんない? こういうのも、なにかの縁だと思ってさ。」
「……それで、全部ですか?」
「なにが?」
「説明が、です。それってなんか、ぜんぜん足りてないです。要は、勧誘? ですよね? なんであたし、たったそれだけの理由で、こんな目に遭わされなくちゃならなかったんですか?」
「……ゴメン。その話もしなきゃね。じゃあまず、いったいどういう目にあっちゃったのか、それから先に教えてくれる?」
申し訳なさそうな表情で、福岡先輩が、そっと尋ねてくれる。
テーブルの向こうでは、八雲くんとぴりか先輩が、互いに、責任を押しつけ合うような目配せをし合っている。
どういう目にあったかって? 言い立てようとして、紗鳥は口を開きかける。
大音量のロックでびっくりさせられ……いや、別にこれは、たいしたことじゃないか。その前は、ひとりで玄関前に置いてけぼり……いや、これも別に……ついて来いって言われなきゃ動けないのって言われたらそれまでだし……。幽霊男……彼は別に、素が不気味なだけで、なにかされたってわけじゃない……。なすび……着たくないなら、嫌だって言えばよかったのにって言われそう……。八雲くんがむりやりひっぱって……これも、ハッキリ断ってればそれまでだったんだ……
「……なにも、ないです。」
陰鬱な声で、紗鳥はそう言って、がくっとうなだれる。
「あたしが……勝手に、ひとりで……」
「女子バレー、ゴタついてんだろ?」
突然、八雲くんが、ずばりと核心を突いてくる。
「男子バレーにダチがいるから、いろいろと聞いてっけど……なんか、すっげぇひでーことんなってるらしいじゃん。……大丈夫か?」
「…………。」
「辞めちまえよ、そんな部。」
「簡単に言わないで。」
「複雑にしてどうする。冷静に考えろ。こんな腐った学校の運動部なんて、いっぺんそんな雰囲気になったら、なんか奇跡でも起きない限り、ぜってー元には戻んねーぞ? っつーか、お前が辞めるまでは戻んねーっつーか。お前がその奇跡のタネにされてるっつーか、どっちにしろ……」
「ゴーヘー。」
ぴしゃりと名前だけ呼んで、福岡先輩が八雲くんを黙らせる。
「……紗鳥ちゃん。」
ついっ、と手が伸びて来て、紗鳥の手の上に重ねられる。
顔を上げると、ぴりか先輩が、テーブルの上に正座して、紗鳥の目をじっと見ていた。
「いちばん、ほんとうに、したいことは、なに?」
まじめな顔だった。
そして、まじめな声音だった。さっきまでの、あの耳障りな響きがどこかへ消えて、まるで幼い子供が、誰か、とても困って見えるひとに、具合を尋ねているような声。
「あたし……」
紗鳥自身にも、よく、わからない。
でも、紗鳥ひとりの力では、決して汲み上げられないような、ずっと深いところから、言葉が、ぽん、と押し出されてきた。
「……お母さんに、心配、かけられない……。かけたくないです……」
ぎゅっとぴりか先輩が、紗鳥の頭を、胸に抱えこんだ。
そして左右に、ゆっさゆっさと揺らしながら、
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶだよお!」
と、リズミカルに唱え続けた。
それはとても、能天気で、無責任な言い方で。
紗鳥にはどうしても「あなたのお母さんは、心配なんかしないから大丈夫」という意味には、聞こえなかった。むしろ、「お母さんに心配くらいかけたって、ぜーんぜん大丈夫!」というように、響いた。
いずれにしろ、紗鳥はもう、泣かずに済んだ。
ぱっとぴりか先輩から離れた時には、なんだか自分でも、どっちでもいいような気が、していた。
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