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大人は、入れない
「遅れて申し訳ありません。みなさん、お席について。」
そう言って、教室を見回すなり、ぽつぽつと、空いた机に気づく。
「あら? どなたがいらっしゃらないのかしら。欠席の連絡はないはず……」
「畠山さんが、具合が悪くなったそうです。」
真ん中辺りの座席から、学級委員の女生徒が立ち上がって、報告してくれる。
「畠山さんが?」
「はい。それで、福岡さんと高杢君がつき添って、保健室へ行きました。」
「まあ……そうなの。」
これは偶然だろうか? それとも、さっきの電話と、なにか繋がりがあるのだろうか。
大急ぎで朝礼を済ませてから、1限目の授業のあるクラスへ行き、10分だけ自習していてくれるよう頼んで、保健室へ向かう。
ドアを開けるなり、むわっ、と暖かい空気に出迎えられた。暖房を強くしてあるようだ。初老の養護教諭、栗田先生が、シンクで氷枕を用意している。
「あ、柳場先生。」
「おはようございます。私の組の生徒が……」
「ええ。今、熱を測りましたら、38度5分ありました。とりあえず、ベッドに……」
「38度5分?」
そんな高熱で、なぜ登校してきたのだ。それとも、家を出るまでは元気だった、とでもいうのだろうか?
「急に出たようですし、もしかしたら、インフルエンザかもしれませんね。流行は過ぎてますけど、市内の学校では、まだ、ぽつぽつ報告もあるようなので……」
「あ。じゃあ、連れてきてくれた子たちは。」
「予防接種してあるそうです。一緒にいたいと言うので、今、見ててもらってます。」
仕切りのカーテンを開けると、ベッドのわきの椅子に、二人の生徒が、並んで腰掛けていた。
畠山ぴりかが、この学園にやってきた時からの仲良し、福岡滝。そして、部活関係で親しくなったらしい男子生徒、高杢海斗。教室では、この二人がいつも、なにくれとなく、畠山さんの面倒を見ている。
「おはよう、みなさん。……畠山さん、大丈夫?」
静かに尋ねながら、目を覗きこむと、愛想笑いだけ浮かべて、けだるそうに逸らしてしまう。
遠くから見る限り、彼女はいつも友人たちに囲まれて、明るく楽しそうにしている。でも、良子が向き合うと、途端になにかが、すっと閉じてしまうかのようだ。
ふと目を上げると、カーテンレールから、制服が吊り下げられていた。
窓の下のヒーターから立ち上る熱気に炙られて、ゆらゆらと、白い蒸気を出している。
「これは? 畠山さんの制服?」
「ああ、濡れてたんです。」
さほど驚いている様子もなく、むしろごく当たり前のことのように、福岡さんが言う。
「洗濯したけど乾かなかったってんですけどね。こんな猫毛だらけのウール、ドライクリーニング洗剤にちょっとつけたくらいじゃ、きれいになんかなりゃしないってーの。」
つっけんどんに言いながら、指先でうりうりと、寝ている親友の額を小突く。それで畠山さんは、
「ぃやめてよぉー、タキー。ぃやーめーてーよー。」
と、ふにゃふにゃした、笑いを含んだ声で応える。
「猫毛?」
言われてみれば、蒸気がなんだか、獣臭い。
立ち上がって検分してみると、なるほど、灰色っぽい毛がびっしりと、こびりついたままになっている。
「おうちで、猫ちゃんを飼ってるの? 私のマンションにも、アビシニアンがいるのよ。」
入りこもう、として、そんな話題を振る。この、こぢんまりとした空間の中でなら、可能かもしれない。
「女の子なの。しっぽが長くって、先がちょっと、カギみたいに曲がってて、とってもあまえんぼさん。名前は、シルヴィーって言うのよ。畠山さんちの子は、なんていうお名前なの?」
……答えはない。つん、と鼻に抜けるような、短い間が空く。
福岡さんと高杢君が、ほんのちょっと、困惑の目配せを交わす。それから、高杢君が、もそもそとした、少し聞き取りにくい声で言う。
「いや……その毛の主は、畠山さんちの猫、というわけじゃなく……」
「きゅうりは、野良なんだな。」
小刻みな、荒い息を吐きながら、畠山ぴりかは、急に喋りだした。
「誰のネコでもない……立派な、野良で……オイラ、ゴハンあげたりもするけど、それは、飼ってるからじゃなくて、友達だからで……もし、誰もなにもあげなかったとしても、きゅうりはネズミとったり、鳥とったりして、けっこう生きていくんだ。そいで、もし取れなくなって、死んだとしても、なにも文句なんかない。飼いネコは嫌いだよ。首輪つけて、マンションの部屋でお留守番して、砂のトイレでうんこするネコは、好きくない。」
「……あらあら……」
まさしくシルヴィーは、『首輪をつけて、トイレでうんこする猫』だ。飼い始めてから今まで、2DKのマンションから外へ出したことなど、ほとんどない。寒い季節にはいつも、ペット用の小さなホットカーペットの上で香箱を組んで、良子の帰りを待っている。
「そーゆーこといちいち言わないの、ぴりか。人様がどうやって猫を飼おうが、あんたの知ったこっちゃないでしょっ!」
ねじっ、と福岡さんが、畠山さんの鼻をつまみ上げる。畠山さんは、また笑いを含んだ声に戻って、
「ひにゃい。」
と、返事とも悲鳴ともつかない叫びをあげる。
「氷枕、できましたよ。さあ、元気なかたはもう、授業に行きなさい。ここを出たらすぐに、手洗いとうがいをするの、忘れないでね。」
栗田先生が入ってきて、タオルにくるんだ氷枕を、畠山さんの頭の下にあてがう。友人二人は、それを最後まで眺めてから、ようやく腰を上げる。
「じゃね、ぴりか。また休み時間になったら来るから、よく寝なさいよ。」
「お大事にね、ぴりかちゃん……」
出て行く二人を、名残惜し気に眺めていた畠山さんが、カーテンが閉じる寸前で、再び声を振り絞る。
「タキー……」
「なに?」
立ちどまり、振り返って待つ福岡さんに、畠山さんが、どこか決死の覚悟のような表情で言う。
「ぴりか、タキ、大好き……」
どうしてか、良子の心臓は、きゅうと縮んだ。
福岡さんは、ちょっとの間、苦笑いしてから、またベッドのそばへ戻ってきて、屈みこむ。
「ばかぴりか。熱ぐらいで、そんなに気弱にならないの。」
そう言って、ぐりっと拳で両方のほっぺたをねじり回してから、そっと額に手のひらをおく。
それで畠山さんは、安心したように、微笑んで、目を瞑る。
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