6
オオカミと熊の森
ある程度、予想はついていたのだが、畠山かおりは、電話に出なかった。
(どこをほっつき歩いてるのよ、娘がインフルエンザかも知れないってのに!)
心の中で罵って、受話器を乱暴に叩き付ける。事務の女性が、驚いて目を丸くするのを見て、自分がかなり、冷静さを欠いてきているのを知る。少し、頭を冷やさなければ。
宿題の添削と、幾つかの事務仕事を大急ぎで済ませ、念のためにもう1度だけ、畠山家に電話する。やはり、出ない。
12回コール音を聞いてから、深呼吸して、静かに受話器を置く。そして足早に、カウンセリングルームへ向かう。
畠山ぴりかの名を出すと、湯浅は即座に、
「あー、あの、裏口で入った子。」
と、わざわざ言わなくてもいいことを、さらりと言う。
「スゴイ金額だったって噂ですけど、ぶっちゃけ、幾らくらいだったんですか?」
「ただの噂です。今そういうこと関係ありません。」
あの子が正規の試験を受けずに入ってきたのは事実だが、学長はおそらく、金銭など受け取ってはいない。そんな人物ではない。
双子の兄が1年前、アメリカで死亡していること。入学して以来、どんどん明るくなっていたのに、ここしばらく、また元気がなくなって心配していたこと。そして、今朝の発熱と、母親からのおかしな電話のことを、手短に話して聞かせる。
「そりゃー、単に記念日反応でしょ。」
と、湯浅はあっさり判定を下す。
「記念日反応?」
「近親者の死亡の場合には、特に命日反応とも言います。そのお兄ちゃんが亡くなった日が近づいたんで、トラウマが蘇ってるんですよ。」
「そんなことが起こるんですか?」
「起こります。」
「熱まで出る?」
「出ます。単にその時期に、免疫機能が低下して、風邪を引きやすくなるってだけですけどね。まあ、それでなくても、昨日は急激に冷えこんだし……」
白い雪が舞い降りる様が、まぶたの裏に蘇る。
昨日見てきた光景と、今朝の保健室の光景が、良子の頭の中で交差する。白い壁。白いベッド。そしてその上に横たわる、白い顔の少女……くたびれていた良子の精神が、思わず叫びを上げる。もう、たくさん!
「その、お兄ちゃんの死因、っていうのは、はっきりしてるんですかね?」
と、湯浅が珍しく、椅子を転がさないまま、真面目な様子で尋ねてくる。
「森で、行方不明になられたとか……」
「森?」
「イエローストーン国立公園、と仰ってたかしら。」
「自殺くせー。」
へっ、と顔を歪めながら、1オクターブ高い声で、吐き捨てるように言う。
「そんな……軽々しく言っていいことじゃありませんよ、なんの根拠もなく。」
「あそこはですねー、グリズリーは生息してるわ、一旦全滅したオオカミは再導入されてるわで、熟練のハンターでもない限り、だーれも森の奥へ入りこんだりはしないんですよ。」
「家族で出掛けて、はぐれたとか……」
「ヘンゼルとグレーテルじゃあるまいし。たとえ家族連れだって、旅行者が厳寒期に、ガイドもつけずに森へは入りません。無鉄砲な少年が、飛び出してはぐれそうにでもなったら、即座にレンジャーに羽交い締めにされちゃいますよ。プロレスラーみたいな、ロッキー山脈の山男にね。」
「でも……」
なんとか反論しようとして、しかし、それですべての説明が、つくような気もしてしまう。
畠山かおりの、あの不自然な苦悩。
「しかしまあ、冬が来るまでは、その子元気だったんでしょ?」
黙りこんでしまった良子に、話を早く切り上げさせようとでもするかのように、湯浅が尋ねる。
「そう見えました。少なくとも、私の目には。」
「なら、命日が過ぎれば、また回復しますよ。そうやって、年月を経て、だんだんと癒えていくんです。あまり心配して、ひっかきまわさないほうがいいですよ。」
「本当に? 本当にこのまま、放っておいても大丈夫なんですか?」
念を押すと、請け合おうとして口を開きかけて、また閉じる。
それから、ちょっと忌々し気に顔をしかめてから、
「……人間に、確実なことなんか、なんにもありませんけどね。少なくとも、今の段階では、介入する余地はなさそうです。」
と言って、後はどこか迷惑そうに、くるりと椅子ごと後ろを向いてしまう。
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