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ベクトルの問題
ある意味、愛です、か……母親というのは……
物悲しい気分で職員室に戻り、授業の準備をしながら、良子は鬱々と考え続ける。
こういう場合に、自分に照らし合わせて考える、ということができない。良子自身に、子供はない。
というか、結婚もしていない。なんとなく、仕事に打ち込んでいるうちに、この年齢になってしまった。
結婚を視野に入れてつき合っていたひとも、いた。いつか、その人との間に自分の子供を持つことも、明確にではないが、思い描いていた気がする。
でも、待たせているうちに、なんとなくフェードアウトしてしまった。
2年後、そのひとから『家族が増えました』という、赤ちゃんのお宮参りの、かわいらしい写真付き年賀はがきを貰った時には、さすがにめげそうになって、旧友を呼び出して、ぐち酒につき合ってもらったりもした。
「それってあれじゃん、良子。あんたいわゆる、典型的な『アラフォー』ってやつじゃん。」
と、その旧友、三田徹子……結婚して、今は高橋徹子……は、高校時代からちっとも成長しない、ぶっちゃけた口調で、からからと笑いながら言って寄越したのものだ。
「やめてよね……徹子の口からアラフォーなんて言葉、聞きたくもない。」
「じゃ、四十路。ナオが言ってたよー。良子ちゃん、廊下で俺とすれ違うたんびに、『ナオくんがこんなに大きくなるんだもんねえー、あたしも年を取るわけだわ』とか言って、盛大にため息吐いてるぞー、って。」
「たんびになんか吐いてないわよ。失礼ね、ナオくん。」
徹子の長男、奈緒志郎は、先日この学園を卒業していったばかり。
少々斜に構えて、人をこばかにしたようなところもある少年だが、成績は優秀で、教師たちの受けは悪くはなかった。4月からは、桃李大学の経済学部へ進学する。
あの時は……そうだ、40目前の女二人、焼き鳥屋さんに入って、一升瓶を1本開けたんだっけ。まあ、私が飲んだのはせいぜい3合くらいで、あとはぜーんぶ、徹子が飲み干したんだけど……
「入学してきた日には、ちょっと愕然としたけどね……。ヒトが結婚もしてないうちに、同級生の産んだ子が、もうこんな一人前の図体になってるのかと思ったら……」
「図体だけだよ。あれ、意外と甘ったれてんだから。女の子とデートに行くのに、なー徹子、俺ワキ臭くねー? ちょっと匂ってみてー、とか言って、腕挙げてこーやって、こーやって寄ってくんの。んなもん、自分で・嗅いで・けっ・つーのっ。」
「……高橋君に似たね。」
「でしょ? 良子もそう思うでしょ? 言ってやってよそれ、ナオに。もーれつに怒るのよ、あたしが言うと。俺はあんなお調子者の遺伝子を受け継いだ覚えはないっ、とか言うの。継いでるに決まってんだろ、あたしゃあれ以外のタネ受けつけた覚えはないんだから。」
だんっと冷や酒のコップをカウンターに叩きつて罵りながらも、目尻が、愛おし気にデレッと下がっている。
それを見ていたら、もうこれ以上、自分の鬱々としたぐちを蒸し返す気が失せてしまって、後はほとんど、高橋家のバカ話を聞いて、笑い転げて終わってしまった。
幸福な家庭に入った女友達なんて、本当に、痛し痒しだ……。
あれも、母親なのよね。職業柄、何百人もの生徒の保護者と面談してきたが、子供に対する愛情の表し方は、本当に千差万別だ。
例えば、もし……本当に、もし、だけれど、高橋家の長女、まりあちゃんが高校生になって、あの監督みたいな男に妊娠されられでもしたら……多分、徹子は包丁を持って、学園に乗りこんでくるのではあるまいか、と思われる。
まあ、それは高橋君が止めるだろうけど。そしたら監督にはきっと、余計に恐ろしいことになりそうねえ。高橋君、決して感情的になったりはしない分、やることが徹底してるんだもの。自分が傷害罪で起訴されるようなヘマは決して冒さずに、じわじわと、ホラー映画みたいに、相手の人格を崩壊させるところまでやりそうな気がする。まああくまで、もし、の話だけれど……。
子供を愛してない親なんていない、と、良子は信じている。でもその愛情って、親によって、なんて角度が違うんだろう、とも思う。
角度の違う愛情。
それって、子供たちにとっては、どう感じられているのだろう。
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