minor club house

ポプラ文庫ピュアフルから出してきたマイナークラブハウス・シリーズですが、以後はネットでやってくことにしました。とりあえず、版元との契約が切れた分から、ゆっくり載っけてきます。続きはそのあと、ボチボチとりかかる予定。

5

  『経験』

 

 

 今日は他に食料を用意していない、と言うので仕方なく、あの兄が経営しているというレストランに、夕食を取りに出掛ける。

「ゆっくり歩いて、50分くらいでしょうか。」

 という晴一郎の言葉に、最初、ばりばり文化系のマイナークラブハウスの面々は、げんなりした表情を隠しきれないでいた。

 が、いざ歩き出してしまえば、春の宵の清々しい空気。輝く一番星。

 山の夜は寒かった。もうクリーニングに出してしまっていたお気に入りのウールのコート、ずいぶん迷ったけれど、持ってきて正解だった。

「ねーねーねー、『さわったものしりとり』しながら歩かない?」

 とヤマダサンが言い出す。やれなぞなぞだ、山号寺号だ、魚鳥木申すか申さんかだ、回文をつくるぞと、このメンツはこういう言葉遊びをするのが、伝統的に好きであるらしい。ちょっとでも時間が空くと、すぐに誰かがこういうことを言い出す。

 学校でも、体育祭だの、出世したOBの講演会だの、強制的に駆り出された運動部の試合の応援だの、タイクツなイベントがあるたびにどこかのすみっこで固まって、

「大決算大赤字!」

「過剰予算ダム工事!」

「窓の桟、掃除!」

 などとやりだすので、まともな生徒たちからは相当に不気味がられている。

「よし、手で触れたものしか言っちゃダメだぞ……『空気』!」

 と、三浦サンが、そこらを掻き回しながら言う。

「『木』!」

 と美優先輩が、道ばたの灌木に触れて言う。

「き、き、き、『キーホルダー』。」

 と鈴ちゃんが、自分のバッグから鍵を取り出して続ける。

「だ? だ、でいいすか? うーん、だ、だ、だ……あっ、『第一臼歯』!」

「おお、うまく逃げたな! 『しり』!」

「り? うーん、り、り、り……あっ、『リンパせ』……」

 首筋に手を当てて言いかけ、慌てて口を噤んだ高杢を、何人かがじわじわと取り囲む。

「んー? 今、リンパ……なんとかって言わなかった……?」

「いえっ、あの……」

 必至に脳を回転させ、そうだっ! となにかヒラメいた顔になる。首にかかっていたままの指で、ぐーっと自分の喉元を締め上げ、

「『臨死体験』!」

「…………。」

「……してる人。」

「バカ! 負けだ、負け、開始一分でおまえの負け!」

 やってる全員が、青春に負けちゃってるような気がする。

 

 一行を導いて、ひとり先を歩く晴一郎に、滝は走って追いつく。

「ねえセイちゃん、ひとつ、質問があるんだけど、聞いていい?」

 これしか持っていないのか、相も変わらぬ、はげちょろけたダッフルコート。しかも、あたしのあげたマフラーはどこへやったやら。

 それも聞きたいけど、とりあえず今は、もっとずっと、大事なことがある。

「どうぞ。」

「いつから、喋れるようになったの?」

「…………。」

 長い長い間が開く。滝はそれに、じっと耐える。

「……年齢的なことを言えば、10歳前後だろうか。」

「なにか、きっかけはあったの?」

「多分。」

「多分って?」

「覚えていないのだ。正確には、その記憶は、脳のどこかに保存されてはいるはずなのだが、取り出しかたがわからない、と言ったほうがいいだろうか。言葉を使うようになる以前の思考は、全て言葉以外のもの……イメージや、音や、匂い、手触り……そういったものだけで構成されていた。それらの思考を、今、記憶として外へ出すには、まず脳の中で当時の感覚をそのまま再現して、それを言葉に翻訳し直して取り出す、という作業が必要になってくる。」

 わかるような、わからないような……。滝が曖昧な顔をして考えこんでいると、晴一郎はさらに詳しく説明しはじめる。

「例えば、滝ちゃんが傘をさしてくれた時のことを思い出した、あの日のように。」

 言われただけで、滝は心臓が、きゅっと縮むのを感じた。

「あれは、意図的に思い出したわけではない。滝ちゃんに再会して、滝ちゃんの口から当時のエピソードを聞いているうちに、どこか、自分の意志の及ばないところから、その時の感覚が、丸ごと再現されてきて、眼前に立ち現れたのだ。そこに、今自分が知っている語彙を、改めて当て嵌める。そうすることで、僕はやっと、過去に身の回りに起こった出来事を『経験』することができる。」

「……言葉にする以前の出来事は、『経験』ではないということ?」

「そうだ。」

「なら、セイちゃんにとっては、思い出したあの日が、あたしが傘をさしてあげたその日、ということになるの?」

「そういう言いかたもできるだろう。そして、僕が喋り出すきっかけになった出来事も、過去に、確かに存在してはいるが、未だ、『経験』はしていない……。」

 そう言って、少し、哀し気な表情になる。

 いつもいつも、石膏で固めたみたいに変化がなくて、のっぺりと平坦な顔。でも、ずっと見ているから、滝にはその、少しの変化がわかる。

「とても素晴らしい体験だったような記憶は、微かにあるのだ。思い出せたら、どんなに嬉しいだろうか……。」

 聞きながら、滝はそーっと、後ろを振り返る。

 他のみんなは、まだしりとりを続けながら、一本道のかなり後ろを、わいわいとはしゃぎながら歩いている。もう暗いから、誰が誰やらわからない。ひとの輪郭がはっきりしない。

 たぶん、大丈夫。すばやく手を伸ばして、晴一郎の肘のあたりに、きゅっと捕まる。そしてまっすぐに顔を見上げて、囁く。

「手伝ってあげる。あの日の記憶だって、あたしが取り戻してあげたんだもの。その大事なきっかけも、きっと……」

 歩き続けながら、晴一郎は、他者の触れている自分の肘を、不思議そうに眺める。

「思い出せる……多分、あたしがいれば……」

「……そうかな?」

 きょとんとした顔で、晴一郎は応じる。

「いや、そのきっかけのあった頃の僕は、滝ちゃんのことなど覚えてはいなかったし、場所も遠く離れていたし。あまり、記憶の引き金にはなり得ないと思うのだが」

「そーいうこと関係ないのっ! あたしが思い出すって言ってるんだから、そのまま信じる!」

「はい。」

 勢いに飲まれた格好で、晴一郎が返事する。

 はーっと呆れたため息をついて、バカ、と口の中で呟いて……でも、滝は最後まで、掴んだ肘を離さない。

 

 

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