7
赤い傘
セイちゃん、などというかわいらしい名で呼ばれて、天野はしかし、不滅の仏頂面のままで、しーんと冷たく福岡さんを見下ろしている。
しかし福岡さんは、それでひるむどころか、ますます確信を深めた様子で、
「その顔、その顔! その、人がなにを言おうがしらーっとしちゃってる、無礼な態度!」
などと切り返しながら、笑いだす。
「天野……天野晴一郎でしょ? 顔がなんだか、異様に間延びしちゃってるけど、目の辺りだけは、面影が残ってるみたい。幼稚舎と、初等部2年まで、桃李付属にいたでしょう? あたし、滝よ。福岡滝、覚えてる?」
天野の目が、記憶を辿るように、ほんの少し細められる。
「なんてまあでっかくなっちゃったの! あんたってば、あたしより小さくて……そりゃあかわいくて! なんだかわけのわからない、突拍子もないことやっちゃあイジメられて、その度にあたしが庇ってあげなくちゃいけなかったのに!」
「えっ、えーっ!?」
思わず、海斗は叫んでしまう。
「そうよ。ホントにヘンな子だった。幼稚舎のお庭で、毎日お砂いじりばっかりしてて……あたし覚えてる。一度、にわか雨が降ってきてさ。先生が、みんなお教室に入りなさーい、って言ったのに、あんたはなにか、気になる事があって、そこから動けなかったのよ。じーっとなにか、睨みつけて……それがなんなのか、あたしには見えなかったけど。それで、先生が『風邪をひきますよ!』って、腕をつかんでひっぱっていこうとしたら、あんたはギャーッて、すっごい声で喚きはじめて……」
「雨の中に、模様が見えたのだ。」
急に天野が、話に応え始める。
「そのような意識状態に陥った際、誰か大人が、その圧倒的有利な身体能力に訴えて邪魔をしてくる場合には、仕方なく諦めるのが常だった。が、その時はなぜか、どうしても最後まで見届けなければならないという気がした。それで、吠えた。」
きょとん、と福岡さんが、天野を見返す。
「すると、僕と同じ大きさの誰かかやってきて……言葉を用いて、その大人を退けてくれたのだ。そして、鮮やかな赤い傘をさして、僕の傍らに立った……という情景が、今、僕の脳裏に蘇ったのだが……」
「そ……そうそう、それがあたし。ほしぐみで一緒だった滝ちゃん。先生に言ってさ、あたしが傘さしててあげるからって。あんた……ヘンな喋り方を身につけたのねえ。昔はほとんど口、利かなかったのに……」
「言葉を用いることは便利だと、長じるにつれ理解した。」
そう言って天野は、ふっと一瞬だけ目を伏せてから、福岡さんの顔を、まっすぐに見返す。
「そう、今思えば、君がしてくれたことこそが、その気付きへの第一歩であったかもしれない。……君のことは覚えている、滝ちゃん。あの時は、ありがとう。」
そう言って……微笑んだ。
こういう状況でさえなければ……海斗は絶対、
「きしょくわりーっ!!」
とか叫んで、ぶっ飛んでいただろうと思う。
けれど、どうでもそういうことをするわけにはいかなかったのは、その微笑みを向けられた、当の本人である福岡さんが、明らかに……
赤くなったからである。
それはもう、それほどこういうことに勘が働くほうではない、と言うか、どっちかっつーとアメフラシ並みに鈍感な海斗が、見ていてこっちが釣られて嬉し恥ずかしですよ! とか、わけのわからんことを喚きながら裸足で逃げ出したくなったくらい、あからさまに「ぽっ」となっちゃったのである。
なんか、もう……勝手にしてくださいよ、ホント……
ここで二人で、世界が完結している隙に、逃げてしまおうかな……
そう思って、そろりそろり、2、3歩後ずさりをした時、
「あっ……だめーっ!!」
と叫ぶ、大沢先輩の声が、中庭いっぱいに響き渡る。
3人が、一斉にふり返る。林の中で海斗が追跡した、あの灰色の猫が、後ろ足にからまったネットを引きずりながら、畑の中央にある噴水のそばの通路を疾走していく。
「そのまま行かせちゃだめ! 林の中で、枝に引っかかりでもしたら……!」
最後まで聞かずに、天野は駆け出していた。あの長い足で全力失踪すると、凄まじいスピードだ。海斗も追いかける。
猫は逃げる。だが、50センチ程の長さのネットを右足に引きずっているせいで、本来のスピードが出せていない。上手くいけば、天野が追いつくかもしれない。
「ふっ」
と鋭い息を吐いて、天野がジャンプする。
そして着地と同時に、少し先にいた猫が、つんのめって倒れる。天野のつま先が、ネットを踏みつけたのだ。
「やったあー!」
と海斗は叫び、もう安心、と足を緩めて歩きだした。絡まったネットを解いてやろうと、天野が猫に手を伸ばす。
猫は、シャァッ! と鋭い威嚇の声を上げて腰をひねり、天野の手に、爪の一撃を繰り出した。そして、まだ足にネットをつけたままの状態で、すぐそばにあったニセアカシアの木に駆け上り、枝伝いに逃げていこうとして……
そして、大沢先輩の心配した通りになった。
「にっ……にゃあーっ! にゃあーっ! にゃあーっ! にゃあーっ! にゃあーっ! ……」
絶望的な鳴き声が、梢の間から降ってくる。
福岡さんが、天野のそばへ駆け寄る。見ると、天野のつま先の下には、20センチばかりのネットが、まだ踏みつけられたままになっている。
「2枚、つないだものだったらしい。」
苦々しい口調でそう言って、頭上を見上げる。
「……失敗だった。」
逆さ吊りになって、哀れに鳴き続ける猫の姿が、さらさらと揺れるニセアカシアの葉の間から、見え隠れしている。
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