5
日々の活動
「『教室に置いてきました』……」
ぶるぶると回転する扇風機の涼風を、自分の背中だけで独占しながら、歴研会長、三浦光輝が四角いメガネの奥から冷たい視線を投げかける。
「……って。キミは今、そう言ったのかな? 高杢くん。」
「はあ。」
肩をすくめて、海斗は返事する。
「どおいうことかなあ高杢くん。僕は今朝、ここに見事に忘れっぱなしだったあの本を、滝ちゃんに頼んでキミに届けてもらったばかりだ。」
「…………。」
返す言葉もなく、海斗はさらにさらに縮こまる。小言を言わている子供がみんなやるように、意識の層を薄ーくひらべったーくしてプチ乖離状態に陥る。その間に、事態が自然に収束してくれることを期待して。
「それをまた、今度は教室に置いてきた、と。キミはここへ、なにをしに来ているのかね?」
「……部活です。」
「キミは、部は、どこかね。」
「……歴研です。」
「当面、部活動として、キミに与えられた課題はなんだった?」
「……あの本読む事です。」
「〈民主〉と〈愛国〉だ。タイトルくらい覚えようね。それでだ。僕にわからないのはだ、そこまで状況がわかっていながら、なぜキミがこのテーブルになにを為すでもなく座り込んで、その締まりのない顔をさらにほうけさせているのか、ということだ。」
「…………。」
わかるか? わかるね!? と言いたげな表情で、三浦先輩はしばし、海斗を静かに見守る。
が、海斗が、その無為で無害なほうけ状態を自分からはやめる気がないらしい、と見て取るや、神経質そうな眉毛を吊り上げてヒステリックに怒鳴りつけた。
「とっ・とと・取りに行けー!!」
「はいぃ。」
わかりやすくて簡単な指示が出たら、あとは早い。海斗は脱兎のごとく部室を駆け出して、みしみしと軋んだ音を立てる回廊を足早に歩き出す。
すぐ隣にある思想研究会のドアの前を通りかかった時、ちょうど会長の3年生、高橋奈緒志郎が出てくるのにぶつかりそうになった。
「よお。なにをやらかした? 三浦のキンキン声がこっちまで聞こえたぞ。」
その、得意満面な顔……別に、海斗が叱られたのを心配して出てきた訳ではないことが、わかりすぎるくらいよくわかる。
高橋先輩は、見るも鮮やかなクリーム色の一枚布を、一方の肩だけを出して体全体にくるりと巻きつけて、教科書に出てくるギリシアの哲人みたいな格好をしている。
それは、実際はギリシアの衣装ではなく、ケンテとかいう、ガーナの民族衣装なのだそうだ。無地ではなく、エスニックな模様が全面に入っているから、一度それを聞いてしまいさえすれば、もうアフリカ以外のものには見えなくなる。
が、本人はすっかりその気になって、液体の入ったコップをかざして「悪法も法なり」とかなんとか呟いちゃってるもんだから始末に負えない。
福岡さんが、マイナークラブハウスの全員に、「ひらめいた順」で衣装を宛てがっていくと宣言して、はやひと月以上になる。ぴりかちゃんや、歴研副会長、兼、和琴部長の沢渡先輩、濃い顔系イケメンのウクレレ部長、松野“ラルフ”和正先輩なんかは、もうすでに複数の「ひらめき」があったらしく、いろいろと素敵な格好で館内を歩いているのをよく見かける。
僕なんかは多分、最後の方なんだろうな……いや、忘れられちゃうかも……
……というのは置くとしても。比較的早い段階でこの衣装を巻きつけられた高橋先輩のうれしがりときたら鼻持ちならんほどで、三浦先輩などはまんま、
「はなもちならーん!!」
と、叫んだほどだ。
「いやー、しかし今日も暑いなあー、あついあつい。」
と言いながら、高橋先輩は背中に長くたらした部分の布を、これ見よがしにひらりと翻しつつ、またシソ研の部室へと戻っていった。
演劇部の部室の、開け放ったドアから、
「痛ったーーーーーーい!!」
という、建物全体がびりびり深く共振しそうな、魔術的な声が轟き渡った。
「うるっさいなあ、動かないで下さい! もうっ!」
という、福岡さんのいらだった怒鳴り声が、それに続く。
覗きこむと、そこには悪夢の産物が……もとい、演劇部長の土井陽子、通称「よーこ先輩」が、窓際の椅子の上で、福岡さんになにか、顔をいじられている。
手首→肘→肩と、上へ上がっていくにつれ、倍々ゲームで太くなっていく腕をばたばたと振り動かして、福岡さんの手を振り払う。
「痛ったいんだもん、だって! やっぱやめよう滝ちゃん、あたし、向いてない。」
「向き不向きの問題じゃないです。今時そんなもっさもさの眉毛、そのまま生やしとく人なんていませんよ? すぐにきれいにして上げますから。」
目を凝らしてよくよく見れば、福岡さんの手に握られているのは、毛抜きであった。
「いい、いい、しなくていい! そんな、ほんのちょっとの美しさのために、痛みを我慢するなんてバカげてる。」
「美を犠牲にしてどうするんですかあっ!!」
真剣にポリシーに触ったらしい激しい怒りの叫びを上げて、福岡さんがよーこ先輩を取っ捕まえる。
「押さえてて下さい、朔太郎サン。そんなところで笑ってないで! ここでしっかり頭を押さえてて! どうでも言う通りにして頂きますよ。入部の時の約束ですからね! ……そこ! なに覗いてんのよっ、高杢!」
悲鳴も上げずに、すっ飛んで逃げる。
階段を降りきったところに、ぴりかちゃんが倒れていた。
「……ぴ……ぴりかちゃん!? どうしたの?」
仰天しつつも、どこかトキメキに似た胸の高鳴りを覚えて、海斗はぴりかちゃんの肩に手をかけ、うつ伏せになっていた体を抱き起こす。
口からつーっと赤い筋が垂れ、真っ青に塗りたくった顔が、がくんと折れた。
「うわわわわわわ」
叫んで、ぱっと手を離してしまう。そのまま、ぴりかちゃんの体は再びがくりと倒れこみ、じっと固まって動かなくなってしまった。
「あ、ああ……また、死んでるのか、びっくりした……熱心だね、ずいぶん……」
ぴりかちゃんは応えない。
「か……階段から落ちた、のかな? 死因は……」
応えない。
「あ、死んでるんだから、返事はできない、よね……」
同。
「がんばってね……」
同。
そろそろと後ずさるようにして、海斗はぴりかちゃんから遠ざかり、通風のために開け放した玄関の扉から、外へ飛び出す。
入り口のドアを開けると、ニセアカシアの林をざあっと鳴らして、吹き渡ってきた風の音と共に、ぽろんぽろんとウクレレの音が響いてきた。
林の際の、草の上に並べ置かれた古い椅子に座って、ウクレレ部長の松野先輩と、1年生の大村鈴さんが合奏している。
大村さんは、ウクレレの上に身を屈めるようにして、必死でコードを押さえて行く。右手で刻むリズムが、複雑なところでは乱れがちになる。
それに優しく重ね合わせるようにして、松野先輩がメロディーを乗せていく。この人はもう、職人芸だ。少なくとも、楽器なんかなんにもできない海斗の目には、神業のように見える。
二人とも、何か、目にちらちらする、不思議な光沢のある布でできた服を着ている。近未来SFもののアニメなんかで、空中都市の住人たちが着ていそうなやつ。これも、福岡さんの作品だろう。後ろの林の景色によく映えて、すごくいい雰囲気。
大村さん、偉いなあ、と海斗は思う。まるっきりの初心者だったのに、もうこんなことができるようになっている。成長が、はっきり見える。
松野先輩が、時折小さな声で、なにか指示を出している。こうやって、ちゃんと後輩を指導してくれる、先輩らしい先輩を持った大村さんが、うらやましく思える。
一曲終わったので、海斗はぱちぱちと手を叩く。二人は少し、恥ずかしそうに微笑みながら、海斗の方にちょっとお辞儀をして、それに応えた。
校舎へ至る林の中の踏み分け道を歩いていたら、前の方から、文芸部の2年生、岩村聡が歩いてくるのに出会った。
「おお、高杢。どうだ、歴研?」
「こんちゃーす。」
並み居る先輩の中で、海斗はこの岩村先輩が、一番マトモでとっつきやすい、と思う。体型がずんぐりして、頭がいがくりで、顔は、後ろから見るとほっぺたがはみ出しているのがわかるくらいの下膨れ。
まだ16歳だというのに、すでにおっさんみたいなこわいヒゲが生えてきていて、部室に電気シェーバーを置いてしょっちゅうじょりじょり剃っている。でも、笑顔が人懐っこくて、面倒見のいい、気さくな人だ。
「なんでこっちへ向ってるんだ?」
「教室に、本、忘れてきちゃったす。三浦先輩に読めって言われてるやつ。」
「歴研の本か? 何読んでる?」
「いや、読んでるってか、まだ、ゼンゼンこれからなんすけど。こーんなすげえ分厚いやつ。民主と愛国とかいう、難しいタイトルで。」
「あっ、あー、あれかあ! あれは……キっツイだろう、文章は平易だけど……高杢、普段、読書はする方か?」
「いや、あんまり好きじゃないっすね。」
「そうか、そしたらちょっと……いやー、光輝もヒデェなあ。自分だってつい最近、ひーひー言いながら読み終えたばっかりのくせに。」
「ええっ、そうなんすかあ!?」
叫ぶと、岩村先輩は困ったように笑いながら、顎をじょりじょりと撫でている。
三浦先輩、ちょろそうに見えて、実はこんな本まで読みこんでるなんて、もしかしてけっこうスゴい人だったりして……などといちおう感心してしまっていた海斗は、騙された気分でがっくりする。
「いや、それも、辿ってくと悪いのは高橋さんなんだよな。あの本、元はシソ研にあったんだ。なんかとトレードしたって話だったけどね。今は二人とも、どっちがより自分とこの新入生を理論武装させられるかってえんで、張り切ってるんじゃないのかなあ。あの二人はなにかと、仲が……およろしいからねえ。」
「およろしいですよねえ。」
そんな見栄の張り合いに巻き込まれて、あんな重たい本を読まされそうになっていたのか。そう思うと、もう今日はこのまま、寮に帰って寝ちゃおうかな、という気がしてきた。
「いや、でも、すごい本だよ。読んでおいて損はないよ。」
と、真面目な顔になって岩村先輩が言う。
「損っすよ。僕の頭にゃ多分、入りきりません。だってあの本の方が、僕の脳みそより、容積が大きいんすから。」
「容積の問題か。それじゃ高杢の脳は、パンチカードか何かで作動してるんだな、多分。」
それほど穿ってもいない海斗の冗談に、快く反応してくれた上で、岩村先輩はさらに親切に教えてくれる。
「なら、同じ人が書いたので、もっと優しいのがあるよ。中高生向きのレーベルから出てる。厚さはこんくらいで、扱ってる内容も相当重なってる。」
「はあ?」
だったらなぜ始めっからそっちを薦めてくれないのだ。
という怒りもあらわに立ち尽くす海斗の背中をぱんと叩いて、岩村先輩は続ける。
「カンベンしてやってくれ! 光輝は光輝で、よかれと思ってやってると思ってさ。まあ、読書初心者の育て方を知らんと言うのは、会長としてどうかと思うけど、それは俺が、それとなく言っとくから。その本、寮の俺の部屋にあるから、晩メシの時にでも、食堂に持ってってやるよ。じゃ、また後でな。」
そう言って、岩村先輩は、桃園会館の方へと歩き出す。
「あ……そうだ、先輩。」
「ん?」
呼び止めて、また話しかける。なんだか海斗は、この人なら信用してもいいなという気がして、もう少し、会話を続けたくなったのだった。
「階段の下に、ぴりかちゃんが死んでます。」
「……あはっ。」
「踏まないように気をつけてあげて下さい。」
「わかった、わかった! そうか、楽しみだな。早く行って見ようっと。」
いそいそと、小走りになって遠ざかっていく。
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