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猫と出会いやすい心理状態というものがある。
最近、毎日毎日、すごいたくさんの数の人と会話してる気がするな……。
本を取って、帰り道、また林の中の踏み分け道を歩きながら、海斗はふと、そんなことを考えた。
中等部にいる間は、学校で青田たちと、日々代わり映えのしないことを、ノリだけで喋って……あとは家に帰って、母さんに、聞かれたことだけ答える。それで終わり。そんな単調な日々が、延々と続いていた。
あれは、いつ頃だったかなあ。退職したおじいちゃんが、主治医の先生に、
「ボケ防止には、1日に30人と会話するといい。」
とか言われたとかで。それまでは毎日、家ではむっつりテレビを見ているだけだったのに、急に僕を構いたがるようになった。
構う、と言っても、学校はどうだ、というお定まりの質問から始まった後は、すぐに「早起きは三文の徳」とか「少年老い易く、学成り難し」とか「孝行を、したい時には、親はなし」だとかそんなことを、ひとりで滔々と語りだしてしまう。そして15分経つと「勉強せえよ」で締めくくって、部屋を出ていく。
もう自分がボケないためだけにやってるってことが見え見えで、しまいにはおじいちゃんが階段をみしみしと上がってきて、
「海斗、おるか、海斗。」
と、ドアをノックするだけで、胃がキリキリと痛むようになってしまった。
家を出よう……寮生活が、どんなことになるかはわからないけれど、ともかくこの家を出よう。母さんが泣こうが喚こうが、取りすがろうが出ていこう。
そう決意することができたのは、あのおじいちゃんの、無意味な義務会話攻撃のおかげかもしれない。そう思うと、ちょっとは感謝してもいいのかな。
ひとりきり、林の中を歩んでいると、様々な想念が、浮かんでは消えていく。
どうなんだろう、自分……。これで、いいんだろうか。ちゃんと、道は合ってるんだろうか。
今、海斗の生活は、急激な変化のただ中にある。いくつもの極端な分かれ道があって、その度に決断を迫られる。
大きな風が、かたまりになって林を揺り動かし、汗ばんだ体全体を、すーっと冷やす。
僕は、ここから、成長していけるんだろうか……
かさり、とごくごく小さな音がして、海斗は、もの思いから引き戻される。
いつの間にか、立ち止まっていた自分に気づく。ここで、どのくらいの時間、ぼうっとしていたのだろう。
視界の隅で……普段なら、見えはしても認知はできないほどの、ぎりぎりの隅っこで、小さな影が動くのをとらえる。
大きな、灰色っぽい、細かい縞模様の猫が、しっぽをぴんとふりたてて、目的ありげな足取りで、桃園会館の方角へすたすたと歩いていくところだった。
(……あっ、あいつか?)
大沢先輩の大事な苗を、だめにしたやつ。
本を小脇にしっかり抱え直し、海斗は小走りで、猫のあとを追う。
追う、と言っても、相手は薮や茂みの中をくぐり抜けていくのだから、当然、見失う。
だが、あのいそいそとした歩き方が、いかにもその、またたびみたいに利くという草を、食べようとしてうきうきしちゃってる感じだったので、海斗は桃園会館の中へは入らずに、建物を回りこんで、直接、中庭に向う。
日当りのいい、南向きの中庭は、林の中より体感温度が10度は高そうだった。見回すと、大沢先輩が育てているハーブ畑に、確かに1ヶ所、棒を立てて、簡単なネットを張り巡らせた区画がある。だが、猫の姿は見当たらない。
「大沢先輩! いませんか? 天野! おーい、天野!」
呼びかけると、大きく育った作物の陰から、天野晴一郎がぬうっと現れた。
右手に剪定鋏を持ち、左の手のひらに、なにか小さな緑色のものを乗せて、それを、非常に険しい面持ちでじっと凝視しながら、海斗のほうに歩いてくる。
「猫がいたぞ。林の中から、こっちへ向って歩いてくるのを見た……なんだ、それ?」
尋ねると、左手を、海斗のほうへ伸ばして見せてくれる。
「……キュウリのヘタ?」
「この状態で、ぶら下がっていたのだ。なにか、生き物が齧ったような跡がある。」
「あ、それで今朝、あんなことを聞いたのか! ……食うのか!? 猫が!?」
「わからない。これの他にも、もっとしかるべき箇所で切断されて、持ち去られた個体が何本かあるが……」
「なんだ。じゃあ人間じゃないの?」
「それも、歯で食いちぎったような切り口なのだ。」
「そうなのか……うーん……なら、やっぱり……」
頭を掻き掻き、しばし天野と一緒に佇んで、考えを巡らせているうちに……
突然、わかった。
海斗の頭の中で、今日1日の間に起こった様々な出来事が、一連の事象として、ぱぁーっとつながった。
「……あー。」
「なにか、心当たりがあるのか。」
「……いやっ、ない。ない。今のはそのう、ちょっと別のことを思い出して……」
ど、どうしよう。どうしよう。どうしよう。
慌てて俯いてしまった海斗の思惑など関係なく、天野は半分独り言のように言う。
「……いずれにせよ、腹立たしい。畑荒らしは、人類が農耕を営むようになって以来の、太古からの罪だ。人は、育てる者と盗む者とに分かれる。獣であれば致仕方がないが、盗む者に対して、僕は容赦しない。」
しええええ、と俯いたままで海斗は、口には出さずに悲鳴を上げる。
こいつがこんなに語っちゃってるなんてこと、それ自体が非常事態だ。多分、怒ってる。心底怒ってる。もしもばれたら、えらいことになってしまう。
天野に発見される前に、なんとか説明して、やめさせなくっちゃ!
「あっ、あー、僕、演劇部の福岡さんに急用があるんだった。忘れてた。」
少々、わざとらしく言いながら、海斗は顔を上げ、本を抱え直す。彼女を制御できるとしたら、それは福岡さんしかいない。
「もう行くね……じゃ、作業がんばってねー。」
「ああ……」
「あー、高杢! ねえ、そこにエリ先輩いる? ちょっと用があるんだけど。」
なんという最悪のタイミング。よりによってこんな時に、どうして福岡さんの方から僕を呼び止めたりするんだ! 逃げられないじゃないか!
「あれ? ああ、あんたが園芸部の人? へええ、高橋サンよりタッパあるなあ……」
福岡さんが天野を、洋服屋さんの目で検分しはじめた……かと思ったら、いぶかしげに首をかしげて、天野の顔をじっと見つめだした。そして呟く。
「天野くん、って……セイちゃん? もしかして……」
ここからなにが起こるんだ、と思って、海斗は少し、目の前が暗くなるのを感じる。
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