minor club house

ポプラ文庫ピュアフルから出してきたマイナークラブハウス・シリーズですが、以後はネットでやってくことにしました。とりあえず、版元との契約が切れた分から、ゆっくり載っけてきます。続きはそのあと、ボチボチとりかかる予定。

9

  アドリブ役者

 

 

 家族全員、夕食を食べずに、史惟の帰りを待っていた。ドアから垣間見えるダイニングテーブルの上に、鍋の準備が、きっちり整っている。

「遅かったわね。大丈夫?」

 と、迎えに出てきた母さんが、少し表情を曇らせながら、優しい声で言う。

「フミ。今度から、遅くなる時には、ちゃんと電話をちょうだいね。でないと、お父さんもおばあちゃんも、ご心配なさるから……」

「ああ……ごめん。」

「こんな時間まで、一体なにをしていたの?」

 怒らないから、正直に言ってご覧なさい。

 小さい時から、ずっと言い聞かされてきたその言葉は、さすがにこの年になると、省略してもらえるようになった。でも、言外にくっついていることに、変わりはない。

「……別に、たいしたことじゃないよ。」

「でも、こんなに遅くなるなんて、あり得ないでしょう? 今、部活していないんだもの。6時には切り上げて帰ってくるって、あなた自身が約束したんだから、その約束は、きちんと守ってもらわなくちゃ。」

「…………。」

「ね?」

「……うん。」

「なにをしていたの?」

「……坂の途中で……友達が、ケガをしていて……」

「ケガ?」

 女の子が粗大ゴミに埋まっていて……よりは数段、現実的に言い換えているのに、一体なんなんだ、この罪悪感が芽生えるほどの嘘臭さは。

「そいつを助けてたら、遅くなって……あ、足を挫いていたから、バス停まで、送っていって……」

「それで、こんなにかかったの?」

 信じていないことがありありとわかる口調で、母さんは言う。だが、そこで表情を改めて、さっぱりと、思い切ったような笑顔に切り替える。

「……まあ、いいわ。ともかく、ご飯にしましょ。お父さんたちお呼びしてくるから、手洗い、うがいしてらっしゃい。明日からは、遅くなる時にはちゃんと、連絡を入れてちょうだいね? ね?」

「うん、わかってる。悪かったよ。」

 同じ笑顔で、にっこりと笑い返す。

 

 ぐつぐつと歌う鍋。肉の煮える匂い。テレビから聞こえる、陽気な笑い声。

「フミ、そっち、もう煮えてるわよ。」

「俺、もう入らないよ。腹一杯だ。」

「えー、ホント? どうしましょ。フミが食べると思って、800グラムも買ってきたのに。」

「買い過ぎなんだよ母さんは、いつもいつも。」

 なんてことのない、いつもの会話。豊かな食卓。

 もしかしたら、今日のことは全て、夢だったんだろうか? 俺は、過去も、今も、これから先も……ずっと同一の遠野史惟のままで、いられるんだろうか?

「史惟、勉強のほうは、どうだ?」

 鍋を切り上げて、ウィスキーを飲んでいた父さんが、優しい笑顔で尋ねてくる。

「……うん。ちゃんとやってるよ。」

「そうか。もちろん父さんは、史惟を信じてるぞ。大好きだった野球部まで辞めて、真剣に取り組んでるんだから、きっとすぐに盛り返すよ。なあ?」

 照れ笑いを返す。昔から、本当にかわいいと言われていた。

「ちゃんと、桃李の医学、通れるんでしょうね?」

 と、おばあちゃんが少し、怖い顔をして言う。

「紗智子さんのところの忠惟君も、今年から慶応でしょう。光惟のところの次男も、来年は開業だと言っていたし、史惟ひとり、なりそこねたらと思うと……」

「お義母さん、そういうこと言うのやめましょ。時代遅れですから。」

 母さんが、ぴしゃりと言う。

 途端に父さんは、我関せずという顔で、グラスを持ってすーっと立ち上がる。

 テレビの前の安楽椅子に陣取り、リモコンを押してチャンネルを替え、ボリュームを上げる。ピッチャー第1球、投げました、打ったあー! センター前ヒーット! わああああああ……

「史惟の進路は、史惟が自由に選んでいいじゃないですか。お義母さんが決めることじゃないと思いますけど。」

「麗子さん、あなた自分の産んだ子に、そんな自信のないこと言っちゃだめでしょう。」

「自信とか関係ないですよ。あたしは単に、子供の進路を大人の都合で」

「あなたがそんなんだから、成績が落ちるんじゃないの。」

「それは関係ないです。どこのお子さんにも、そういう時期ってあるって言いますから。ねえフミ。成績のことは、絶対大丈夫よねえ?」

 表面は丸く、奥では三角に吊り上がった目が2組、史惟の方に、じっと視線を注いでくる。

 こんなのはいやだ、と史惟は思う。

 本当は、父さんになんとかして欲しい。でも、父さん、とても忙しそうだ。だから、ボクがやらなくちゃいけない。

 ボクは男の子だもの。この家の子供だもの。ボクがうまくやれば、きっと大丈夫。だってボクは生まれつき、賢い子だから……

「うん。大丈夫。」

「ちゃんと、桃李の医学部に通れるんでしょうね?」

「ですから、お義母さん。史惟は別に、そのために努力してるわけじゃ」

「継がないでどうするの、史惟しかいないのに。だいたい、あなたがひとりしか産まないから」

 いつもなら、だいたいここら辺で、史惟がおばあちゃんを宥めながら、離れの和室に連れて行く。

 戻ってくる頃には、テーブルの上は片付けが済んでいて、父さんは書斎に戻っている。そして母さんが、デザートの果物を出してくれる。

 美しく、食べやすいように盛りつけられた、イチゴや、キウイや、グレープフルーツ。広いテーブルの向こうの、どこかしら必死で淋し気な、母さんの笑顔。

「フミは、大丈夫よね。お父さんの子だし、生まれつき、頭がいいものね。」

 ……それが、この家の台本。細かいバージョンは幾つかある。でも、だいたい、こんな感じ。

 降りちゃだめだ。ボクが降りたら、このお芝居は続かなくなってしまう。そしたら、このおうち、きっとなくなっちゃう。

 ボクのすむところが、なくなってしまうんだ……。

「ならないかも知れないよ。」

 早口の、小さな声で、史惟は言う。心の底ではまだ、誰にも聞き取れなければいい、そしたら言わなかったことにできる、と思っている。

「え? なに?」

 母さんが、訝し気な顔で、尋ね返す。

「……やめるかもしれない、俺。そういうの。全部。」

 膀胱が縮む。おしっこがもれそうだ。ここ最近始まったことではない。俺はもっと、ずっとずーっと昔から、この感覚と共生してきたのだ。

「どういうのか、って、うまく言えないけど……なんか、嘘みたいで……母さんたちが、俺に、与えてくれてるものは、ほんとうに、いいものだとは思うけど、それ、俺も、ホントに、いいと思うけど……でも、あんまり、それと、俺が、ごっちゃになっちゃうと、母さんたちが、大事にしている、ものが、ほんとうに、俺なのか、それなのか、わからなくなって……それの、ことはきらいじゃないのに、確かめるために、だけ、それを捨てて、しまいたくなっ、て……どうしていいか、わか……わ、わか、く、わか……」

 口が回らない。自分がなにを喋っているのか、よくわからない。涙が、冗談みたいにぼろぼろと溢れ出る。

「フミ……だ、大丈夫? 熱……」

 母さんが、史惟の額に手を当てて、ここから連れ出そうと、腕を引っ張る。史惟はその手を、力一杯払いのける。

「ちが……お、俺、は……」

 その瞬間、父さんがウィスキーのグラスを持って立ち上がり、史惟とすれ違って、ダイニングルームから、静かに出て行った。

 ぱたぱたと、階段を上がるスリッパの音。そして、書斎のドアが閉まる、柔らかな音。

 しばし沈黙が流れた後、

「……じゃあ、わたし先に休ませてもらいますよ。」

 と言って、おばあちゃんがそれに続く。ドアのところで史惟を振り返り、一瞬だけ、悲しそうな顔をする。

 テレビから、試合終了を告げる、アナウンサーの興奮した声が流れ出た。でも、どことどこが戦っていたのか、どっちのチームが勝ったのか……それは、史惟には、聞き取ることができなかった。

 

 

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