4
時の平行
「……どこに行ってたの?」
やがて、泣きやんだ少女が尋ねてくる。惣一郎の肩に、額をぎゅっと押しつけたままで。
節々がひどく痛んだが、今はこの子を動かしたくない。ぎしぎしと軋む関節を、懸命に黙らせつつ、惣一郎は同じ姿勢をじっと保つ。
「別の世界、行けたの?」
「ああ……うん……」
ぼんやりした頭で、曖昧な返事をする。
「じゃあ、やっぱり正しかったんだね。世界と世界をつなぐ入り口は、あの古い森の中に、ほんとうにあったんだね……」
そんな本が、初等部の図書室に、あったような気がする。あれは確か……『ナルニア国ものがたり』だ。少年と少女が、『世界と世界の間の林』というのを通って、別世界へ、冒険に行く話があったっけ。
「どんな世界だったの? ここと、どんなふうに違ってた?」
「うん……そうだなあ……。」
世界ががらりと様相を変えた、あの夏の日を、昨日のことのように思い出す。
ラジオから流れる、不明瞭な音声。『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……』どこか、ばつの悪い顔で散ってゆく、大人たち。
「……まるっきり、別の世界、というわけでもなかったよ。ちゃんと、地続きになってはいるんだ。その日の前と、後とで、息の仕方や、体の動かし方が、変わるわけではない。生活していくことは、相変わらず辛く、厳しくて……」
「辛かったの?」
刺されたように、少女は叫ぶ。それがそっくりそのまま、自分の辛さになるのだと言わんばかりの、悲痛な声。
「辛かったよ……。皆、打ちひしがれていた。親しい人を失って、自分だけが生き残ってしまったことに、深い罪悪感を覚えていて……」
「ぴりかもだよ。」
低い、陰鬱な声で、少女は言う。
「どうしてあたし、ひとりぼっちでここに残されたんだろう、って。ずっと……」
「そうか……君も……」
親兄弟を、皆取られて、孤児になってしまったのか。
「……だが、いつまでも悩んでいる暇はない。ともかく体を動かして、なにか、口に入れるものを探さなければ、すぐにも死んでしまうのだ。せっかく残された命、なんのためにここにあるのかが、わかる前に飢え死にしてしまっては、元も子もない。一見、矛盾した行動のように思えても、謎を解くためには、食べ続けなければならない……」
「うん……そうだね。」
しばらくの間、二人で黙りこむ。空腹、ということについて、なにがしかを知っている人間同士の、静かな連帯感。
「……無我夢中で食べものを探し、日々を生きていくうち……ある時を境に、僕は、失ったものではなく、手に入れたものについて、深く考えを巡らせるようになった。」
眠っていた記憶が、次々に目覚めてくる。あの頃、僕が探求していたもの。
「僕の、幼い頃から馴染んでいた世界は、ほとんどが焼け落ちてしまっていた。だが、焼け跡に、もう新しい木々が、芽を吹き出していた。このニセアカシアの林だよ! 成長は非常に早く、翌年にはもう、白い花を咲かせた。甘い香り……。引き寄せられてやってくる、たくさんの、働き者のミツバチたち! それを見ていたら、気がついたんだ。時代は変わった。ともかく僕はもう、自分の意に添わぬ生き方をしなくて済むのだ、と。ここから、自分の好きなように、自分の新しい世界を、建設していけばいいのだと……」
「新しい世界……」
うっとりと、少女は囁く。
「いい言葉だね……。」
「ああ。僕はそのために生きているのだと、確信することができた。いや、自らの意志で、そう想い定めたと言ったほうが正しいかもしれない。そうしたらもう、辛いことなんか、なにもなくなった。あったとしても、それは単に、肉体の辛さというだけに過ぎなかった。ミツバチたちに負けぬようにと働いていると、腹の虫がやかましく鳴くのさえ、オーケストラの、高らかな演奏のように聞こえたね! キューウウウウウー、ウウウウウウウーウー……♪」
おどけて歌ってみせる。少女は惣一郎の肩に顔を伏せたまま、くつくつと笑い出す。
「へーえ。そうくんのお腹の虫って、退屈すると、『牧神の午後への前奏曲』を歌うんだ? 知らなかったなー……」
「うん。他に、『ボレロ』なんかも得意だねえ。鳴り出したのを無視して、食べずにいると、どんどん盛り上がっていくところなんか、本物そっくりだったよ。もっともっとお腹がすくと、今度は『第九』をやり出すんだ。そりゃあ、いやみったらしい虫どもなんだよ。晴ーれーたーるーあーおーぞーらーたーだーよーうーくーーもよー……♪」
くくく……と、少女は肩を揺らして笑う。惣一郎の腕の中で、しなやかな肉体が弾み、皮膚を通して、若々しい力が流れこんでくる。
それが、ひどく嬉しい。だから惣一郎は、一緒に声をたてて笑う。そして、できる限り長く語り続けて、できる限り長く、この少女を抱いていようと決意する。
「そんな具合で、どんなに胃袋が辛くても、心は穏やかだったね……。ともかく僕は、命を落とさずに済んだのだ。体も、五体満足のまま残っていたし、なにより若かった……。そして、やるべき仕事は、すぐ目の前にあった。それは、いいことだった。僕にとって、救いだった……。」
「ずっと言ってた、あの仕事のことだね。」
ほうっ、とため息まじりに、少女は言う。
「僕らのような、生まれた時から何かのために自分を捧げるように教えこまれた子供を、二度と出してはならないと……」
「うん……。」
当時の心持ちが、蘇ってくる。ふつふつと、たぎるような情熱。
「うまく行った?」
「そう信じている。少なくとも、今、僕の力の及ぶ範囲には、もう、あんな理不尽な死に追いやられる子供は、ひとりもいない。」
言いながら惣一郎は、少女の体にまわした腕に、ぐっと力を込める。
「君にも、見せてあげたいよ……皆、良い子らだ。健やかで、自由で。いつでも、笑い声に満ちている。そりゃあ、ひとりひとりの心の中には、悩みもあれば、苦しいこともあるだろう。若い時代に特有の、心の壁にぶち当たる日もあるだろう。だが、それを乗り越えようと思うなら、妨げるものは、最早なにもない。己の行く道を探すことは、子供たちひとりひとりの、当然の権利であると、認められている。」
「誰も、邪魔しないの?」
うっとりと、少女は呟く。惣一郎の腕の力に応えるように、自分もますます強く、頬を擦りつけてくる。
「なにが正しいのか、自分で決めていいの?」
「そうだ。」
「国中みんなが、『それが正しい』って思ってる価値観に、従わなくても許されるのね?」
「そうだよ。いや、そんな価値観そのものがなくなったんだ。あの日を境に、揺らいで、消えていったんだ。」
「ああ……そうくん。」
幸福なため息。それが、涙に湿った服地を通して、惣一郎の胸に、ほんのりとした熱となって伝わってくる。
「それが理由なら……それが、そうくんの行かなければならない理由だったのなら、ぴりかはもう、なにも文句なんかない。この1年、とても辛かったけど、それで別の世界に、そんなすばらしい場所が出現したんだもの。その世界の子供たちが、大勢、しあわせになれたんだもの。」
「ぴりか……」
聞いたばかりの少女の名前が、なぜか、すぐに口をついて出る。
この風変わりな名を、発音したことがあったような気がする。僕は以前にも、この子に会ったことが、あるような気がする……。
ふと、視線を感じて、顔を上げる。
あの猫が、いつの間にか身を起こして、惣一郎の顔を、じーっと睨みつけていた。
なんだか、気に入らない目つきだ……。馬鹿にされたような、不愉快な気分になって、惣一郎は負けじと、猫を睨み返す。
ここでこの少女と、ずっと一緒にいたいと思うなら、まずはあの猫を、なんとかしなければいけない気がする……。
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