2
亀裂
なんの役にも立てなさそうだったから、紗鳥は、ひとりで先に帰ってきた。
縁側に腰掛けて、ぼんやりと遠くの山並みを見つめる。もう、1時間くらい待っているけれど、まだ誰も戻らない。
天野先輩、いったいどうしちゃったんだろう。高杢先輩と太賀先輩、ちゃんと面倒見てあげてるだろうか。
と、いうことだけを心配するようにしている。努めて。もう一方のことを考えたくないから。うっかり考えたが最後、泣いてしまいそうだから。
別に、どうでもいいことだし。博愛で優しくされてるだけだって、ちゃんとわかってたし。昨日だって、一昨日だって、あたしは寝る前に、自分にきっちりそう言い聞かせた。喜んじゃだめ。ヘンな風にとっちゃだめ、気を引き締めなさいって。
でも、どうしても、弛んじゃってたけど。
ぽつん、と膝の上に涙がこぼれて、それで自分が、努力の甲斐もなく『もう一方』のことばかり考えてしまっていることを自覚する。
今頃、どうしているんだろう。滝先輩と八雲くん。なんだかもやもやする。想像したくないことを、いっぱい想像してしまう。それを抑えつけておくだけで、心のエネルギーがからっぽになってしまいそう。なにか、他のことを考えなくちゃ。
「猫背で歩いてんじゃねーよ。」
何度も思い返したシーンが、また頭の中で再生される。一昨日の午後、果樹園の入り口から、ずっと並んで歩き続けた時のこと。
背中を押されて、ぴんと背筋が伸びた。それで、自分が今までずっと、身を縮めて、俯き加減で歩いていたことに気がついた。どうかして、八雲くんより、小さくなりたかったから。
「俺、髪の毛の先まで入れると、おまえよりでかいし!」
えっへん、と胸を反らして威張って言うから、おかしくて笑ってしまった。それで、もう俯かないで、ちゃんと前を見て歩いた。
そうしたら、世界が、とってもきれいだったっけ。
風が、光って見えた。牧場の動物たちや、ひらひらと目の前を横切るモンシロチョウが、みんな愛おしかった。観光に来ていた家族連れの人たちが、とてもしあわせそうで、目が合った時、こんにちはぁって言いたくなった。
だってみんな、こんなきれいな世界で、今を生きてるからって。
バカみたい……。口の中だけで、紗鳥はぽつんと呟く。
あの日の自分って、きっと今の自分から見たら、殴りたいような間抜けな顔してたんだろうな。浮かれて、にやけて、ふにゃふにゃして。……ホント、バカ丸出し。
せめて、好きだったと思いたくない。向こうが親切にしてくれただけのつもりなら、こっちだって、その親切が嬉しかっただけなんだって思いたい。そう、あの人、いい人だもんね。自分でそう言ってたじゃない。「シケた奴見ると、構いたくなる」って。あたし、相当……シケてたのよ。
「たーっだいまーっ。」
ぎゅうっと胸が締めつけられる。顔を上げると、八雲くんが、こちらへ歩いてくるところだった。
「滝先輩、帰ってきたー?」
「え……一緒じゃないの?」
声が震える。いつもの八雲くんなら、こんな風になってたら気づいてくれる。なーに顔引きつらせてんだよーって。まーたなんかあったんだろーって。
でも、なにも言わない。
「探したけど、見つかんなくてさー。」
嘘、と直感的に思ったけれど、紗鳥はなにも言わない。言う権利なんかないから。
「そう……どこ行ったんだろ。」
「まあ、まだ出発まで、1時間あるし……」
「どうして……あんなことに……」
「うーん?」
わけのわからない顔で、八雲くんは頭を掻きむしる。
「まあ……あんまり深くつっこまないほうがいいことってあるしなー。」
縁側の隣に座りこんできて、すました顔で言う。
「そうね。あまり深くつっこまないほうがいいこと、たくさんあるよね。」
どう聞いたって、怒りたいのを必死で堪えてるような声。バカ、紗鳥。これじゃ問いつめてるも同然じゃないの。やめなさい。我慢しなさい。みっともないわよ!
でも、ダメだった。
頭の中で、必死に叫んだ。どうかしたー? って聞いてよ。いつもみたいに、なにそんな声出してんだよー、って構ってよ。おまえってホント、扱いづらい性格してるなーって、あのいつもの、半分呆れたような言いかたでいいから、言って欲しいよ……。
「あー、喉カラカラ。今朝、天野先輩、麦茶沸かしてたよなー? あれって、まだ残ってたっけ?」
「…………。」
答えてやらない。だって、八雲くんだって、質問を無視したから。
「……台所かな。」
ひとりで呟いて、家の中へ入っていってしまう。
俯いて、足元の地面を見る。黒い蟻が、ショウリョウバッタの屍骸に群がって、じわじわと巣穴の中へ、引きずりこもうとしている。
→ next
http://kijikaeko-mch.hatenablog.com/entry/omake3-3