おまけ・マイナークラブハウスの縁談 1
シェルター
胸が痛い。足が重い。目が霞んで、世界がよく見えない。
なのに、止まらない。地理もわからぬ山奥の村の、白く乾いた土の道を、滝はどこまでも走り続ける。
意外だったわけじゃない。気づかないでいたわけじゃない。薄々感づいていた事実が、ここではっきりしたというだけのこと。
なのに、どうして、こんなに取り乱しているのだろう。どうして自分の体に、言うことを聞かせることもできないのだろう。止まれ。止まれったら。
目の前に、長い石段が現れる。てっぺんにぼんやりと、赤い鳥居。
駆け上がる、というわけにはさすがにいかなかったが、それでも滝は、痛む足を持ち上げつつ、一段一段踏みしめていく。
突然、「かくっ」と膝がくだける。
「ふわ。」
肺が空気を置き去りにして落っこちるような、間の抜けた悲鳴と共に、体がくずおれる。石段の角に、全身をしたたかに打ちつける。
激痛が走るが、その痛みがなぜか、白い幕の向こうから押しつけてくるような感じで、現実感があまりない。
否応なく、体は止まった。だが止まってみると、今度はほとんど動けない。蒸気機関車のような勢いで吐き出される息や、どん、どん、と音を立てて鼓動する心臓の痛みだけがあたしの体。後はなにか、別のものになってしまっている。
失恋って……
(そう頭の中で呟いてから、愕然とする。あ、これってやっぱり、そうなのか。)
足腰立たなくなるくらい、しんどいことだったのか……
「……知らなかった。」
苦笑いを浮かべて、ぽつんと呟く。頭の中になぜか、遠野くんの顔が浮かぶ。
昔、手ひどくふった彼。つかまれた腕を振り払ったら、急にバカになったみたいに動きがめちゃくちゃになって、言うことまでがわけわかんなくなった。それを見たら、あ、もううんざり、なんて思って、さらにさらに冷めた。
あいつも、こんな気持ちだったんだろうか。壊れた行動しかできなくなった自分の体を、こんな風にしらーっと見つめている内側があっただろうか。その内側は、なにを考えていたのだろう。
「滝先輩。」
呼ばれて、ゆっくりと顔を上げる。
すぐ下の段に、ゴーヘーが立っている。
顔が、涙でぐちゃぐちゃだったけれど、別に恥ずかしいとも屈辱とも思わない。そんな感情のメーターなんか、とっくに振り切れてしまっている。
「……スゲーきれいっす。」
なに優し気な顔して、一度ダメ出されたシーン繰り返しているんだか。
でも、今回、殴り飛ばす気力がない。
顎に、指がかかる。唇を塞がれても、舌を差し入れられても、なんの感情も湧かない。遠野くんと、最後にしたのが中3の3月だったから……1年半ぶり、人生二人目、か。そんなどうでもいいことを考えている。小学生の算数。
ひとしきり吸いついてから、ゴーヘーは滝の体を抱き起こし、ぴったり隣に座って、ほっぺたの涙を舐め始める。
為されるがままになっていると、今度は鼻の下の鼻水まで舐め始める。おいおい、と思って、それでもだらっと脱力したまま放っておいたら、鼻の穴に舌の先が入ってきて、それでさすがに反応せざるを得なくなる。
「やめてよ。もう。」
軽く押し返すと、すんなり離れる。
「えっへへー。」
してやったり風な顔で、へらへら笑う。
ため息を吐いて、少し体を離して座り直す。そして、自分が今いる場所を、初めて見回す。
またずいぶんと、高くまで上ってきたものだ。それに、思っていた以上に急な階段でもある。あの時、転げ落ちてしまわなかったのは、ずいぶんと運が良かった。いや、頭でも打って、一息に死んでしまえるものなら、そっちのほうがよかったのかもしれないが。
「どこよ、ここ。」
不機嫌な声で呟くと、
「さあ、俺にもわかんないっす。」
と言いながら、肩を抱いてくる。ばちっと払いのけたが、ひるまない。
「紗鳥ちゃんに言うわよ。」
脅しをかけたが、ゴーヘーはしれっと応える。
「内田? 別になんでもないすよ。」
ダメだこいつ。嘘をついてる自覚がない。逆の状況でも、同じ顔で同じセリフが、多分本心から言える。こんな奴にひっかかったら、そっくり人生の無駄使いだ。
「今のは、本日限りの特別事態よ。」
動け、動け、滝。自分で自分に掛け声をかけながら、滝はぴしゃぴしゃとほっぺたを叩き、深呼吸する。本来の自分を取り戻せ!
そうやって、必死に心を落ち着けていくと……ある線を越えたところで、急にこの逆上の原因となった出来事が、フラッシュバックする。
(獣め。獣め。獣め……)
どんっ、と胸に衝撃が来る。涙が噴き出し、また頭の中がぐちゃぐちゃになり……記憶が遠のく。
だめだ。とても向き合えない。
「それでいいっすよ。俺、待てますから。」
そう言ってゴーヘーは、膝に顔を埋めてしまった滝の髪を、優しく撫で始める。
それが、今度は、気持ちいいと感じる。逃げているだけだとわかっていて、でも、遠ざけられない。
「……今、もう、9時です。」
と言って、ゴーヘーが髪から手を離し、そっけなく立ち上がる。
「道、探さなきゃいけないし……そろそろ、歩き出したほうがいいかも。」
そして先に立って、階段を下り始める。なによ、どうして急に、そんなに冷たくするのよ。
それは、ちょっとしたテクニックだったということが、すぐに判明した。
重い体を引きずって、ようやく階段を下り切ったところで、ゴーヘーはまた優しい顔をして滝に向かい合い、
「本日、ってまだ、終わってないすよね。」
と言って、ゆっくりと唇を近づけてくる。
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