第九話 柳場良子、子供の砦に迷い込みたる縁 1
この世で最もやりきれない、しかしありふれた事件に立ち会う
卒業式も終わり、風に野の花の香りが混ざり始めた春の始め、気まぐれに逆戻りしてきた寒気団が、この地方に、数年ぶりの雪を降らせた。
桃李学園高等部教諭、柳場良子は、教え子の見舞いで訪れた病室の窓から、無言でそれを眺めた。白いブラインドの向こうに、ちらちらと揺れる、白い綿帽子。
白い部屋の、白いベッドの上で、それに負けないくらい白い顔をして横たわる、まだ幼さの残る少女の顔。
目は見開かれている。だが、なにも見てはいない。良子と視線を合わせることを拒むかのように、虚ろに天井の辺りを眺めているだけだ。
「わざわざ、来て頂いて……」
母親が、良子の買ってきた花を活けて戻ってきた。気まずそうに、なにを語っていいものかわからずに、ただ、辺りをぱたぱたと歩きまわっている。
カサブランカなど、買うのではなかった……と、良子は悔やむ。こんなに白一色の風景の中に、また白を入れて、どうしようというのか。それに、きっとこの香りは、彼女にとって厭わしい思い出の一部として、強烈に記憶されてしまう。
うにゃああ、と遠くの方から、微かな泣き声が聞こえた。
猫のような、新生児の泣き声。次いで、わっと華やかな、大勢の笑い声。
「……うるさい。」
と、ベッドの上の少女が、まるで表情も変えずに、鋭く、低く、呟いた。
「ドア閉めて。」
「きちんと閉めてあるけえ……大丈夫……」
そう、母親が返事すると、さっと布団をひっかぶって、顔を隠してしまった。
やがて、白い布団がふるふると、微かな振動を始め、嗚咽が漏れ始める。
「西本さん。」
良子は静かに、教え子の名を呼んだ。
教え子、と言っても、担任になったことは一度もない。彼女がバレーボール部の特待生として、山の麓の小さな町からやってきた年に、古文の授業を受け持っただけだ。
厳しい練習、レベルの高い授業内容、慣れない寮暮らし……。新しい日常に翻弄されて、神経をすり減らしていた時に、ほんの少し、相談にのっただけだった。特別目立つ生徒ではなかったし、それほど自分を慕ってくれているという印象もなかった。
だが、西本結花は、今度のことを打ち明けるのに、それだけの関係に過ぎなかった良子を選んだ。
絶対に、絶対に、他の人には言わないで……と。
逆に言えば、それほど彼女は、孤立無援の状態にいたわけである。ひとりぼっちで悩み続けていたであろう、ここ数週間の彼女の気持ちを考えると、それだけで良子は、胃にキリキリと、穴が開きそうな痛みを感じる。
「にーし、もーと、さん。」
少し、節をつけて、歌うような調子で、良子は再び呼びかける。そして、とん、とん、と布団の上から、肩の辺りを優しく叩いた。
やがて、布団の下から、小さな声が聞こえてきた。
「……んなさい……」
「んー?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に謝っているのかわからない。
でも、きっと彼女は、ありとあらゆるものに謝っている。
だから、私が応えても……いいわよね。
「悪くないのよ、あなたは。」
布団のてっぺんから、ほんの少しはみ出した髪をそっと撫でながら、良子は言う。
「西本さんは、ちーっとも、悪くない。」
これが真実ではないと言うのなら、私の首を、刎ねてくれたっていい。
そう思いながら良子は、ふるふると心許なく震える少女の髪を、ゆっくり、ゆっくり、撫で続ける。
病院の地下の、ひと気の無い喫茶室の、目立たない隅っこのテーブルで、西本結花の母親は、それでもまだ安心できない、というふうに、時折そっと辺りを見回しながら、小声で話し続ける。
「いいんです、いいんです、そんな……訴えるなんて。白黒つけて、どうにかなるような問題じゃないし、それでいくらか、慰謝料なんか貰ったりしたところで、あの子の体が、元に戻る訳じゃないし……」
「もちろん、お金の問題ではありませんし、白黒つけるのが目的でもありません。大事なのは、結花さんが今度のことを、心の中できちんとプロセスして、乗り越えて行くということなんです。」
スクールカウンセラーから聞きかじったばかりの言い回しだったが、説得力がありそうだったので、使ってみる。
「結花さんだけが、辛い思いをして、卒業して……それで、あの監督が辞任もせずに、今後もずっとあの部で指導し続けるということになれば、結花さんはますます、今度のことを、自分ひとりの過ちとして、自分ひとりの胸の中で、抱え続けて生きて行くことになります。それでは多分、結花さんの精神が持ちません。どこかで、破綻が来ないとも限らないかと……」
「今、このタイミングであの監督さんがお辞めになったりしたら、ますます噂が立つばっかりだと思うんです。」
口調は丁寧だが、どこか投げやりな、トゲのある声で、西本結花の母親は言い返す。
「結花のため、結花のためって、先生さっきから仰ってますけど、結局、自分とこの学校の膿を出したいだけでしょう? そんなん、なんで結花が入学する前にやっといてくれんかったんですか。なんであの子が、自分の恥をさらしてまで、後から入ってくる子らのために、桃李学園のために、そんな……」
「学園のためではありません。」
理屈が通らない相手との議論は辛い。特に、こちらに負い目があるときは、なおさらだ。
「それに、結花さんの恥だなどと、お母様の口から仰るべきではないように思います。それでは結花さんが、」
「これからあの子の面倒、一生見ていくのは私らです。偉そうなことは言わんといて下さい。」
「……なぜ、一生面倒を見ていかなければならないのでしょう? 結花さんがもう、二度と自立できないとでもお考えなら、」
「こんなことになってまだ、この先あの子に、まともな人生があるとでも思ってるんですか!?」
どんどん声が大きくなる。どんどんこちらの話を、途中で遮るようになる。こうなったらもう、実のある話し合いは不可能に近い。
もう無駄だろうな、とは思いながらも、良子は少し意地になって、これだけは口に出しておく。
「失礼ですが……その、『まともな人生』と言うのは、いったいどういう人生を指して仰っておられるんでしょうか?」
「いいです、もう。結花は連れて帰るんですから。もうこれ以上、私らをかきまわさないで下さい。」
目の前で、がしゃんと音を立てて、錠前が閉じたような感じ。
遮断された空気の前で、良子はただ、なす術も無く黙りこむ。
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