10
僕の妹
音楽はかかっていなかった。しーんと静まり返った野梨子の部屋のドアを、竜之介は根気よく、ノックし続ける。
「野梨子。野梨子、母さんはいないよ。僕……」
「コンコンうるせーよ……さっさと入ってくりゃいーだろ、ばーか。」
ノブを回すと、鍵はかかっていなかった。野梨子はベッドの上で、壁にもたれて、ぐったりと座りこんでいる。
しばらく、ドアを背にしてつっ立っていると、
「座れば?」
と、投げやりな言いかたをしながら、自分の隣の場所を顎で示す。竜之介は、そこに腰を下ろした。
長い、長い沈黙……なにをすべきかもわからぬうちに、体が冷えて、寒くて、眠くて、竜之介はうっかり、目を瞑りそうになる。そこへ、野梨子の方から、口を開きはじめた。
「ミツアキくん……友達なの? お兄ちゃん。」
「ん? ああ。いや、そういうわけでもない。まあ、友達の友達、くらいかな。」
「今日、一緒にいた人たち?」
「え?」
「あの人たちが、お兄ちゃんの学校の友達なの? 一緒に帰ってった、制服の……」
「ああ……」
桃園会館を根城に、日々、無意味で非生産的な活動にばかり精を出す、マイナークラブハウスの部員たち。
あれって、友達……かな。ほんのちょっと、野梨子の言ってる『友達』と、定義がズレてるような気がしないでもないが、ここでそんなことを言い出しても始まらないので、とりあえず肯定しておく。
「うん、まあ。友達。」
「いいね。楽しそ。」
ほっ、と鋭い吐息とともにそう言って、野梨子がぽろぽろと、泣きはじめる。
「あたしなんか……ぜんぜん、つまんない……つまんないことばっかりだよ。勉強はできないし、顔はブサイクだし、それひとつで勝負できるようなことって、なにも持ってないし……。なにもないなら、せめて、ピカピカしてる人のそばにいきたいのに。ミツアキくんみたいな、すごい光ってる人に、ほんのちょっとでいいから……近づいて……」
「勉強はできないかも知れないし、勝負できることも、今のところはないのかもしれない。」
気のきいた慰めなんか、やっぱり思いつかないな、と思いながらも、竜之介はとりあえず、思うところを言っておく。
「でも野梨子は、どっちかっていうと、かわいいほうだと思うけどね……」
こんなことぐらいしか言えない。これってちょっと、兄としてどうよ、と自己嫌悪になりかかったが、効果は、てきめんだった。
「……ホント?」
涙でいっぱいの目を、まっすぐに向けて、野梨子が聞き返してくる。
「ん?」
「あたし、どっちかっていうと、かわいい?」
「……僕はそう思ってるけど。」
「ホントに?」
ぽん、とハスの花が弾けるように、野梨子が笑う。
小学生の時、早起きして一緒に見に行った、ビオトープのハスの花みたいに。
「なんだよ……こんなんで元気出るのかよ。」
思わず、呆れ気味の口調でそう言ってしまったが、野梨子の笑顔は、そのままで弾け続ける。
「出るわよ……すごいうれしいわよ。なによ、お兄ちゃん。なんでそういうの、もっと早く言ってくれないかなあ、もう!」
ばん、と肩を叩いてきて、そのままベッドに転がって、笑いこける。
「あは、あはは、あははははは……」
「……お前なあ。」
なんか損したような気分で、でも、竜之介も笑えてくる。
しばらく、一緒に笑ってから、ポケットに隠してきたものを、ほいと目の前に突き出してやる。
「……なにこれ?」
「ピック。ミツアキに頼んで、1枚貰ってきてやった。」
「うそっ!」
がばっと跳ね起きて、ひったくろうとするのを、ひょいと背中に隠してお預けにする。
「やるけどさ……これから、家の中で、あんまり不機嫌にしないって、約束してくれないか? 嫌なんだよ僕、野梨子がオニみたいな顔して、半泣きで怒鳴り散らしてるのを見るとさ。悲しくなってくるんだ。母さんがうざいのはわかる。僕だってうざいもん。だけど、うざい大人と真正面からぶつかったって、エネルギーの無駄遣い以外のことになりゃしない。もうちょっと、うまく立ち回って……」
「それは、お兄ちゃんが男で、優等生だから言えるんだよ。」
少し目を吊り上げて、野梨子が反論する。
「そんなに、構われないで済んでるじゃない……あたしには、むちゃくちゃスゴイんだから。本当に、がんじからめにしてくるんだよ。力一杯反抗しないと、ホントに押しつぶされそうって言うか……もっと、なんて言うか……」
「食われそうな感じ……かな、もしかして。」
「そう!」
ぱっと顔を上げて、力強く同意してくる。
「そんな感じ……ほんとに、あたし、あの人に、頭からがりがりって、まるごとかじられるんじゃないかって気がして……。」
「それは僕がなんとかするよ。どのくらいできるかわからないけど、できるだけ、野梨子の味方になるって約束する。だから……」
もう一度、ピックを差し出す。
「もうちょっと、楽しそうにしろよ。」
そっと両手を伸ばして、野梨子は、ピックを受け取る。
愛おしげに握りしめ、祈るように額に押し当てて、
「うん。がんばる。」
と言いながら、ぽろっと大粒の、きれいな涙をこぼした。
自分の部屋に帰って、ベッドに倒れこむなり、眠りがオーロラのように、頭の中に舞い降りてくる。
今日はホント、長い一日だった……
深い眠りの底に沈みこむ直前、忘れていた光景と、もう一度出会う。そうか、記憶の底と、眠りの底って、繋がっているんだ。だったらこれから、毎晩夢の中で、君に会えるのかもしれないね。
真っ白な背中のぴりかちゃんが、竜之介を振り返って、笑顔で手を振ってくれる。
それに手を振り返してから、竜之介は勢いよく、ノンレム睡眠の海の中へと飛びこんでいく。
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