第八話 太賀竜之介、迷走の果てに為すべきことを為す縁 1
兄は眠れない。
「林の中……あれが死んでしまう……」
という、天野晴一郎の呟きの意味を、なんとなーく察することのできたメンバーが、ひとりだけ、存在した。
話は、2月に遡る……それは、小雨降る、寒い夜のこと。
部室に宿題を忘れてきたことに気がついて、歴史研究会1年、太賀竜之介は、陰鬱な顔でため息をついた。
ねちねちと陰湿な倍返しをするのが大好きな数学の教師が、宿題の提出率が悪いことに腹を立て、数字だけ違って使う公式はそっくり同じ、という、めんどうくさい系計算問題のプリントを、もう2枚出し直してくれたのだ。ひとりでも欠けたら、次回もまた同じものを、今度は3枚、下さるという。
これに教育的意味があるのか、ないのかで、教室の意見は最初、まっぷたつに割れた。ここまでしつこくやれば、この公式は、絶対に強烈に頭に残るから、やはり意味はあるのだ、という向きもあり、それはそれで真実のような気もしたが、あの先生の普段の性格から言って、やはりこれは、基本的には嫌がらせなのだろう、ということで落ち着いた。
ともあれ、ちゃんと提出しないと、あとがめんどうだ。
時計を見る。もう11時近い。明日、早起きして、教室でやっつけるよりほかないだろう。
竜之介は、目覚ましを5時半にセットして、できるだけ早く眠ろうと、固く目を瞑る。
突然、怒鳴り声で、目が覚める。
「今、何時だと思ってるの! 中学生の娘が、こんな時間までほっつき歩いて、危ない目に会ったらどうすのよ!」
「るっせーんだよ、デブ! 人の生活に口出ししてるヒマあったら、てめえの贅肉とかふーふカンケーとかの心配してろよ、デブクソババア!!」
どたどたどた……っと階段を駆けあがる音。それから、すぐ隣の、妹・野梨子の部屋のドアが、ばぁーん! と勢いよく閉じられる音。振動が、竜之介のベッドにまで、ぶるぶると伝わってくる。
「野梨子! 野梨子、ちょっとここ開けなさい! 話ちゃんと聞きなさい!」
叫びながら母さんが、ドアをバンバン連打している。それを弾き飛ばすように、部屋からは野梨子の好きな女性ヴォーカルのCDが、ちょっと夜中向けとは言えないボリュームで鳴りだした。壁がびりびり振動する。
「野梨子!!」
竜之介が廊下に出ると、母さんはもう、顔を涙でぐしょぐしょにして、半狂乱で怒鳴っていた。見ていて、あまり気持ちのいい光景ではない。
「……他所の家にまで、聞こえると思うよ。」
竜之介がそう言うと、とりあえず母さんは、叫ぶのだけはやめた。ずるずるとドアの前にへたりこみ、すすり泣きながら、竜之介を見上げる。
まんまるにふくらんだ顔。肉に埋まった、小さな目。悲しい家畜みたいな目。
「……なんで、こういうことになるのかしらねえ……」
冷えきった廊下で、暗い、呪詛のこもったような声で、ぶつぶつと呟きはじめる。
「お母さんが、なにか悪いことをしたからこうなったの? でもお兄ちゃんはちゃんと、立派に育ってるのに……。育て方が悪かったんなら、二人とも悪くなってるはずよねえ。でも、お兄ちゃんはいい子で、野梨子は……野梨子はなんでこんな、悪い子に……」
「そーゆー言いかた、やめようよ。」
僕はめんどうくさいから反抗しないだけだよ、という言葉が、喉もとまで出かかったけれど、寸前で飲みこむ。だって、めんどうくさいもん。
「だって、今、もう12時よ! 信じられる? 14歳の女の子が、会社員みたいに、日付変わるまでまで遊び歩いてるなんて、お母さんの時代じゃ考えられなかったわよ。携帯に電話しても出ないし、なにがあるかわからないし、ずっと寝ないで待ってたの、心配で、当たり前でしょう、それをなんで、余計なお世話みたいに、あんな言いかた、」
「ねえ、ここで騒いでると、野梨子、いつまでもあの音楽とめないと思うんだ。そしたら近所迷惑でしょ? 一旦、下に行っててよ。僕がなんとかするからさ。」
「一言、ごめんなさいって」
「無理に言わせたって意味ないよ。とにかく、このままじゃ僕も眠れないし、明日の授業にも障るから……」
近所の目を持ち出す。それでだめなら、竜之介の学業を持ち出す。それでこの人は、だいたいコントロールできる。
固い肉がみっちりとついた肩を、ほんの少し押すようにして、階段の下まで送る。それから戻って、一呼吸置いて、曲と曲の間を狙って、ドアをノックする。
「野梨子。悪いけど、音、ちいちゃくしてくれる? 僕、寝たいから。」
しばらく、不機嫌な「ため」の後で、すうっとボリュームが下がる。
それから、ドアが細ーく開く。
「ババア下行った?」
「行ったよ。僕、寝るからさ、静かにしてよ。」
それだけ言って、自分の部屋に戻ろうとすると、野梨子は追いかけるように、ケッと罵り声を上げる。
「お利口ぶりっこ。」
「……僕にまでからまないでくれよ~。」
はーあ、とため息を吐いて、少し、うんざりした声でたしなめる。
「キモいんだよ。あんなデブの言うことほいほいきいて、毎日素直にお勉強しちゃってさ。アンタ、生き甲斐だもんねあの人の。『うちのお兄ちゃんは桃李学園に通ってるんですのよー』とか言われて、なんかご自慢のペットみたい。嬉しい?」
「僕は僕の好きなようにやってるの。邪魔しないで。」
「彼女できた? 高等部で。」
出たよ、と竜之介は、口には出さずに思う。なんで勉強のできない奴は、すぐにこの手の話を持ち出して優位を保とうとするのか。それしかないんだろうか。
「ま、そのうちお見合いで、社会的条件の釣り合う女が、いくらでも見つかるわよ。お勉強さえできればね。それでその相手、子供産んだら、あのババアみたいにぶくぶく太ってくの。お兄ちゃんはそれを養うのに24時間働いて、過労でハゲて、それで満足なのよ!」
猛烈な早口でそれだけ言って、バンと超特急でドアを閉める。まるで、竜之介が閉めるよりも先に閉めなきゃ負け、みたいに。
ここまで手間をかけさせといて、またあの音楽が始まったら、さすがに頭にきちゃうかも……と、内心ヒヤヒヤしたが、ボリュームはそのまま、動かなかった。
でも、眠りにくいことに、変わりはなかった。
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