10
恐ろしい予感
もらったパンも、持ってきたお菓子類も食べ尽くし、さすが暇つぶし名人揃いのマイナークラブハウスの面々も、退屈と空腹に押しつぶされそうになった頃、ようやく表で、待ちかねたバイクの音がした。
「帰ってきた!」
「ホントに連れてきてるか? あの弟ひとりじゃないだろうな。」
「……いや、後ろに誰か乗ってますよ。天野みたいです。」
「ったく、あの野郎……一言、言ってやんなくちゃ気が済まないぞー。」
ばたばたと争うように靴を履き、全員で門の外へ走り出る。
「おーす……連れて帰って……きたぞー……」
エンジンを切り、座席にまたがったまま天を仰いで、疲れ果てた声で呟くユースケの顔を見て、滝は、びっくりして叫ぶ。
「どっ……どうしたの、そのケガ!」
「あー?」
泥と、青あざと、血のりだらけの顔を不愉快そうにしかめて、ユースケは、腰にぐるぐる巻きにした縄を解きにかかる。
それが緩んだ途端、後ろに座っていた晴一郎の体がぐらりと揺れて、地面に頽れてしまった。
「セイちゃん!」
「気絶しとるだけじゃ。走っとる最中に暴れられても困るけえ、ちょっと寝とってもろうたわい。」
駆け寄った滝が、うつぶせになった体を起こしてみると、なんと晴一郎の顔も、ユースケに負けず劣らずの青あざだらけ、キズだらけではないか!
「な……なんなのよ、これはーっ!!」
怒り狂って睨みつけると、ユースケはうんざりした顔で言い返す。
「なんなのよって……、こうでもせんと、こいつ帰ってこんじゃろうが。」
「あ、あのー……いったい天野、どこにいたの?」
高杢が尋ねると、ユースケは血の色の唾をべっと地面に吐き捨てて言う。
「今回は、由が谷の洞窟におったわい。」
「今回は、って……」
「よくあることじゃ。街のお上品な学校で、1年間勉強して帰ってきても、本質はそうそう、変わらんらしいの。」
「よく、あること……なんだ?」
あっけにとられた高杢の顔をちらりとみてから、少し真面目な口調になって、ユースケが続ける。
「ああ……こいつの頭ん中がどうなっとるんか、誰にもわからん。ジジババ連中は、学校の成績だけを見て、賢すぎるせいじゃろう、と軽く言うが……俺は、晴一郎が賢いと思ったことは、いっぺんもないのう。右へ行くか、左へ行くか、どっちかしかないような奴じゃ。ほどよいところを行け、ほどよいところを! ちゅうと、それがどういうことなのかわからんで、混乱して、こんなことになる。」
「どんなこと? 天野は、その洞窟でなにをしてたの?」
「なにをと言われてものう。ぶつぶつの、ぶつぶつの、ぶつぶつじゃ。地べたに座りこんで、『……こうか? いや、違う。それではこちらが成り立たない。では、こういうことなのか? いや、だがしかし、それでは……』」
それが結構、似ていたので、あまり深刻に心配していないメンバーが、どっと大受けする。
しかし、滝にはとても、笑うどころではない。
「それを連れて帰ってくるのに、どうしてこんなケガをさせなくちゃならないの!?」
「勘弁してくれや、おかっぱ。そういう状態の晴一郎を連れ戻したことのない奴に、とやかく言われとうはないぞ! おれだってケガしとるじゃろう。」
あんたのことなんかどうでもいいのよ! と怒鳴りたかったが、さすがにそれは人の道に外れるだろう、という判断がギリギリのラインで働いて、ぐっと言葉を飲みこむ。
「自分で納得できる答えを見つけられれば、ふらふらになりながら帰ってくることもある。が、たいがいは、身動きできんようになるまで続くんじゃ。小学生の頃は、小便まで垂れ流しで、丸2日固まっとったこともあったんぞ。」
「それを、毎回、キミが連れ戻していたわけ?」
と、少し態度を改めて、三浦サンが尋ねる。
「天野の本家のじいさんが生きとった頃には、じいさんが行っとったが、デカくなるにつれ、手に負えんくなってのう。中学に入った後は、もっぱらおれじゃ。」
「……暴れるの?」
恐る恐る尋ねた高杢を、にやり、と見返して、
「見たこと、ないか?」
「……ない。」
「ほうか。まだ、街で暴れたことはないか。」
そう言って、しゃがみこんで、滝の膝の上の晴一郎の顔を、しみじみ眺める。
「ほうかあ……ええ学校じゃのう、おまえらの学校は……。おれは、晴一郎はてっきり、イジメられて、大暴れして、逃げ帰ってくるじゃろうと思うとった。おれがかばってやることもできん、瑛兄が顔を利かせてやることもできん、そんなところで、うまくやっていけるはずがないと思いこんどった。こんなええ友達をたくさん作って、連れて帰ってくるなんて、夢にも思わんかった……。」
しばし、一緒にしんみりと、晴一郎の顔を眺めてから、滝は静かに言う。
「どうも、ありがとう……。ごめんなさい、いろいろキツいことを言って。」
「なあに。後はこのまま、しばらく寝かせておけば、目を覚ます頃には、悩んだことを忘れとる。それより、約束を忘れんでくれよ。今度そっちへ遊びに行くけえ、さっきのあの、写真のかわいい子……ぴりかちゃん、か、キッチリおれに紹介してくれよ。」
「わあああああああああっ!!」
絶叫と共に、滝の膝から、晴一郎の頭が、マリオネットのように跳ね上がった。
「やべえ! 下がれ!」
叫んで、ユースケが滝を、思いきり突き飛ばす。たった今まで滝の顔があった空間に、晴一郎の拳が、ぶんと空気を切り裂いて飛ぶ。
「落ち着け、晴一郎。」
なだめようとするユースケの脇腹に、晴一郎の足が入った。
こんな本気の暴力沙汰とは、無縁の人生を送ってきた桃李学園の箱入り生徒たちの耳には、なんとも形容し難く、音声変換のできない、びみょー……に、いやー……な、音がした。
「この……!」
以下、二人の口から漏れる獣のような叫びも、やはり、音声として捉えることはできなかった。
みんな、びびっていた。人間って、こんなイッちゃった目をして戦うのか……とか、そんな漠然としてのんびりした感想を抱きつつ、じりじりと半歩ずつ後ずさりすることしかできなかった。滝ですら、とめようとか、心配とか、考えられなかった。頭の中はただ、
うはあ……
という感嘆しかなかった。
何度目かの、いやー……な音がして、それがつまり、ユースケのフックが、晴一郎の胃のあたりに入った音だった。
晴一郎が、再び地面に倒れこむ。
「はーあ、しんど……。こりゃ、俺にももう、押さえ切れんな……」
苦しい息の下から呟いて、ユースケも、ぺったりと座りこむ。
「……セイちゃん?」
恐る恐る近づいて、滝は、晴一郎の顔を覗きこむ。
晴一郎は、目を開けていた。うつろな視線を宙に泳がせながら、口を動かして、なにか言おうとしている。
「か……きゃ、もも……」
「え、なに?」
また起き上がって、手を振り回してきたら……と思うと、滝は足が震えそうだったが、勇気を振り絞って、耳を近づける。
「帰らな、きゃ……」
ひどく舌足らずな、聞き取りにくい声で、けれど確かに、晴一郎はそう言っていた。
「桃園、会館……林、の、中……あ……あれ、が、死んで、しま、う……」
なんのことだか、滝には訳がわからない。
→ next