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父と息子
カツサンドを腹いっぱい食ったミサキと、DSのマリオカートで対戦していたら、固定電話が鳴りだした。
「ナオ、出てー。おかーさん今、手が離せないー。」
「こっちも離せねーんだよ……って、あ、ミサキてめー! 青ガメ投げゃーがったなこんちくしょー!」
「やったー、逆転1位ー!」
「おっと。お兄さんは電話に出なければ。」
「あ、ひでっ! ずっりー!! 卑怯ー!!」
「卑怯者と、言われ続けて、18年……」
一句詠み、よっこらしょ、と年寄り臭く腰を上げて、電話に向かう。
ナンバーディスプレイは『通知不可能』。こんな表示が出るような辺境から掛けてくる人間は、父、敦彦(42)しかいない。あっちは今、朝の7時ごろだろうか。
「もしもし?」
受話器を取り上げ、そう言うと、しばしの間を置いて向こうから、
『ぺもぺも~?』
「……番号違いです。」
『いやいや、おい、俺だ俺だ。待てって、ナオ。』
ざーざーと混線模様の雑音の向こうから、父、敦彦(42)の声が聞こえてくる。
「なんなんだよ、そのふざけた挨拶は。」
『いや、だからさー。俺、今、町のコーヒー屋から電話してんだよね。揚げパンと、薄ーいコーヒーで朝食しながらさ。で、携帯開いて、呼び出し音聞きながら待ってる間に、隣のテーブルの、どっか、中央アジアっぽい顔した出稼ぎくさい二人連れが、俺のほうを指差しながら、なんかひそひそ話してるわけよ……今もそいつら、俺のこと、じーっと見てるんだけどね。』
何日かぶりに電話をかけてきて、いったいなんの話題だ、と奈緒志郎は思ったが、とりあえず、黙って聞き続ける。
『言葉はわかんないんだけど、日本、っていう単語と、も、で始まる、例の電話の挨拶……さっきお前も使ったあれ、な、あれだけは、ハッキリ聞き取れたんだ。だから多分、あれ、日本人だぞ、日本人は電話の時、最初にも……って言うんだ。いいかー、よく聞いてろよー、今、も……って言うからなーって、そういうことを言ってるんだろーなーと見当がついたもんだから、素直にあの、も、で始まるあれを言うのが、癪にさわってさ。』
「なんの用だ。」
『ププっ、なんか、モメてるよ、あいつら。も、じゃないじゃないか、ウソつきー。おかしいっ、そんなはずはないっ、オレはニホンのアニメよく見るから知ってるんだっ。とかなんとか言ってんのかなー、フフフ……』
「切るぞっ。」
『いや、待て待て待て。久しぶりに電話したんじゃないか。なんか、親子らしい会話しよーぜ、親子らしい会話。』
「どんなだよ。」
『ほら、例えばあれだ、あれ。ナオ、大学どこ受けるんだっけ。』
「アホか、おっさん。今、何月だと思ってる! あんたが出発する前に、俺はもう進路決まってただろ! 桃李の経済行くんだよっ!」
『経済? 教育学部じゃなかったっけ。ナオは教職就きたいんだろ?』
「やめた。」
『なんで?』
「……びみょーに、違う気したんだよ。もう、現行の教育システムはキかなくなってる。お先棒担いだってなんにもならない。子供の個性を伸ばすためにうんたらかんたら、生きる力がどーたらこーたらって議論、地盤崩れそうな崖の上にかんぽの宿建てんのと一緒だ。だから、経済効果から責めることにした。」
『経済効果?』
少しだけ、父、敦彦(42)の声がマジになる。奈緒志郎は続ける。
「小さい頃に、適切なケアを受け損ねた人間をひとり、成人してから適応させるには、莫大なコストがかかる。それは結局、社会にとっての損害なんだ。教育で国家に利益を出そうと思うんなら、こういうやり方がお得だぞって……そういう言い方なら、おつむの固くなった大人にも通じるんじゃないかと思ってさ。調べたら、もうそういう分野はあるんだよ、教育経済学って。それを専門に研究してた講師が、一昨年から桃李大に来てるんだ。だから、それをやる。」
『へー。』
それだけかい、と奈緒志郎がキレかかると、父、敦彦(42)は察したように、
『いや、怒るな怒るな。感心してるんだよ。そうかそうかさすがだなあ。』
と、至極まったりした口調で述べる。
「ちゃんと本心で言ってんのか?」
『本心だよー。いやーさすがだわ俺。よくこのご時世に、並の息子をここまで賢く育てたもんだ。やっぱ、俺ってすっげー。』
「内戦に巻きこまれて死んでこい。」
『ホメてんだよ。テレだよ、父親の。わかれよそれくらい。ほら……しから……って、おか……、……あれ? ……な? もしもし? もしも……』
「聞こえねーよ……なんだ? 電波悪いのか?」
『……ーッ!! 言っちゃったよもしも……っ! ……っくしょー、……め、笑ってやが……っかく騙し……ーっ!!』
「おい……」
『……だこりゃ……う、切っ……に、伝え……りが……てまーっ……!』
「おーいっ?」
ぷつっ、と回線が切れる。
奈緒志郎の胸には、奇妙な徒労感だけが残った。まったく、親父といいお袋といい、この家はいったいどうなってるんだ?
「やーれ、終わった終わった……。電話、誰から?」
たくし上げたジーンズを元に戻しながら、風呂場を洗っていた徹子(41)が戻ってくる。
「あ、その、うーんざりして爛れ切っちゃったような表情は、おとーさんからだったのね。」
「その通りだ。」
「なにか、おかーさんに伝言は?」
そう言って、耳に手を当てて、目を閉じて待つ。
雑音でほとんど聞き取れなかったが、どうせいつもの、あれに決まっている。
「『どーもありがとー、愛してまーっす』。」
「はい、どうも。」
と言って徹子は、胸に手を当てて、ほっこりと笑う。
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