8
心と口が繋がる、頭を無視して
と、覚悟していたのに、目を覚ましたら、10時を過ぎていた。
妙にすっきりした頭で下りていくと、キッチンに、鶏ガラスープの匂いがいっぱいに立ちこめている。徹子(41)がキッチンで、ル・クルーゼの鍋いっぱいに、乱切りの野菜を放りこんで、ことことと煮込んでいた。今夜、ぴの字に食わせるためだろう。
「おはよう、ナオ。よく寝たねー。」
「おはよ……チビどもは?」
「ぴりかちゃんと映画。あんた起きてこないから、4人で行っちゃったよ。」
そうか、またしても失念していた。それにしても、こうもあっさり俺を放免して行ってくれるとは、よほどぴの字が気に入ったか。
「あの子、親はなにしてるの?」
真面目な顔になって、急にずばっと徹子が切りこんでくる。こういうことには、鼻の利く女だ。
昔からそうだった。高橋家には、複雑な家庭環境にある子供が、なぜだかたくさん寄り集ってきた。学校ではそれほど仲良くしている訳でもない連中が、奈緒志郎が帰宅するよりも先に遊びにきていて、奈緒志郎よりも先におやつを食べていたりした。しかも、自分より小さいきょうだいたちを引き連れて。
それが自分の人気のゆえではなく、そういう連中はただ、徹子のケアを求めてやってくるのだ、と気づいたのは、10歳ぐらいの時だったろうか。あの連中は本当に、学校が終わってから、夜、保護者が帰ってくるまでの間、安心して遊んでいられる場所を、他に持っていなかったのだ。
「そういうこと、あまり喋らないんだよ。俺が知ってるのは、兄がいたけど、どうやら死んでる、ってことぐらいかな。」
「……なんで死んだの?」
「知らん。」
「あんたの他に、友達は?」
「それは心配ない。桃李はヘンなのが多いから、あんなのでも、受け入れてやれる奴が、相当数いる。普段は賑やかに生きてるよ。」
冷蔵庫を開け、適当に朝食になりそうなものを見繕って、もそもそと摂取していると、玄関のドアが開く音がして、
「たーかはーしくん、あーそーぼっ。」
という、子供の声がした。
「はーい?」
と返事して、徹子が出ていく。
「あれー、ミサキくん。透と吉宗は今日、お姉ちゃんと映画に行ってて、お昼過ぎまで帰ってこないんだよー。」
「えー?」
しばらく、沈黙が続いた後、子供は小さな声で、なにかもそもそと話しはじめた。飲みかけのコーヒーカップを持って、奈緒志郎も玄関まで行ってみる。
「……それで、おばあちゃんも、夜まで帰ってこないし……おれ、おとうさんに、たかはしくんち行く、って言っちゃったし……」
「児童館は?」
「今日、おやすみ。」
「そっかー、それじゃあちょっと困ったねえ……」
袖のすり切れた真冬もののジャンパーに、ビーチサンダル、という、ちぐはぐないでたちの子供が、それでもニンテンドーDSだけはしっかり抱えて、俯いて自分の足の指を眺めている。
こういう時、徹子は、すぐには救いの手を出さない。
しばらく黙って、子供の出方を待つ。子供はもじもじと、なにか言って欲しそうに、いつまでもその場を動かない。
「ねえ、ミサキくん。こういうことってさ、前にもあったじゃない? その時にもおばちゃん、言ったんだけどさ、こういう時は、どうすればいいんだったっけ?」
「…………。」
「黙ってたら、世界はなにも変わらないんだよ。」
「…………。」
「ほら、なにか、言うんだったよね? こういう時は、なんて言うんだったっけ? ん?」
「……待ってる。」
「うーん、惜しい。『待ってる』じゃダメ。なんだっけ?」
「……『待ってていーですか』。」
「はい、よろしい。いつもの場所で、ゲームをしててもいいですよ。」
言われて、その子供はすぐに階段を駆け上がっていった。高橋家には屋根裏があり、古い絵本や、奈緒志郎が幼い頃に使っていた木製のおもちゃなどが収納されている。そこが、要するに、そういう子供たちのプレイルームというわけだ。
キッチンに戻って、料理を続けながら、徹子がぽつぽつと喋りだす。
「……あの子のお母さん、だいぶ前から、実家に帰っちゃってるらしいんだ。赤ちゃんは一緒に行ったんだけど、おれは大きいからダメって言われた、って……」
「あまり首をつっこむな。」
遮るように、奈緒志郎は鋭く呟いた。
徹子は、驚いた顔で、奈緒志郎を見返す。
「あ、いや……」
自分でも自分に驚きながら、しどろもどろになって、奈緒志郎は続ける。
「ほら、あいつらも……どう思ってるかわからないだろ? 自分がいない間、母親が他所の子供を家に上げてさ。そりゃ、あいつらは双子で、いつもセットで行動してるから、もう何人か増えたところで、なんとも思わないかも知れない。でも、その子供がいつもいつも、自分の好きなタイプの友達だとは限らないじゃないか? まりあなんかは、はっきりイヤがってたこともあったじゃないか。あの子とあの子はいいけど、あの子が来ても家に上げないで、なんて言って、ちょっとモメたことあったし。そういう時に……」
なんだろう。話がうまくまとまらない。どこへズレて行ってるんだ、俺は?
「……引っ込みつかなくなるじゃんか、事情を、あんまり詳しく知ってると……世の中には、いろんな境遇の子供がいて……そういうことを、早々と知っちゃって、俺は……俺は、恵まれているんだな、と思うと、邪魔をするのも大人気ないような気がして……それで俺は、いつも……」
「ごめん。」
と、徹子が白旗を揚げる。
くつくつと、鍋が歌う。
「ごめんね……。あんたいつも、優しい子だったから……気づかなかった。」
「いや……」
それだけの会話で。
それだけで、奈緒志郎は、自分の気が済んで、早々と回復し始めるのを感じる。
「いや、今回のことで……結局は俺も、同じ血を引いちゃってるんだなーって気づいちゃってさ。あんなもん、拾って来たりして……」
そうだ。俺は多分、これでじゅうぶんに、満ち足りて成長してきたのだ。
「なんだろう。それで根本的に解決する訳じゃなくても、とりあえず、お前ちょっと休んでけ、って言いたくなっちまうんだよな。うちに連れて来さえすれば、あんたがどうにかしてくれるってわかってるから、それがまた、嬉しいと言うか、こっちとしても安心と言うか……」
苦笑して、冷めたコーヒーを、一息に飲み干す。そして、気分を切り替えるように、軽い調子で言う。
「なんか、よくわかった気がするよ……これは多分、業みたいなもんだな。そういうことに、首をつっこまずにいられない、遺伝病みたいなものだ……。」
「今夜、パンとご飯、どっちがいいかなあ。」
ノリを合わせて、徹子も明るい声で尋ねてくる。
「ほら、ぴりかちゃんってば、お箸、へったくそだったじゃない? エビつまむのに、四苦八苦しちゃってさー。」
「ああ……それであいつ、手づかみで食えるものが好きなんだなあ。」
「おにぎりって手もあるけど……シチューだからなあ。やっぱりパンにしとこうか。後でちょっと買いに行ってくるね。」
「俺、今、行こうか? どうせヒマだから。」
「そう? じゃあお願いしようかな。お金渡すから、バゲットと、バターロールと……明日の朝の食パンもお願い。あと、サンドウィッチかなにか、適当に見繕ってきてくれくるかな。多分、あの子……」
と言って徹子が、階上を指差した途端、キッチンのドアが開いて、当のその子が、そーっとキッチンを覗きこんだ。
「おばちゃん、おれ、のどかわいた……」
「はいはい。喉が渇いた時にも、なにか言うセリフがあったよね? なんだったっけ?」
「……から、なにか、のみものください……」
「お前、昼飯はどうすんだ?」
急にでかい兄ちゃんに声をかけられて、子供はびくっとして、黙りこむ。
「もう、じきに12時だぞ? あいつらが帰ってくるまで、なにも食わないで待つ気か?」
「…………。」
「俺は今から、パン屋さんまでお使いに行く……つき合え、ミサキ。」
「えっ?」
「えっじゃない。運ぶのを手伝えっつーんだ。サンドウィッチとジュースを山ほど買うんだから。ほら、ビーサン履け、ビーサン。」
ぱしぱしとケツを叩いて、玄関へ追いやる。
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