3
no problem
奏がおかしくなったのは、小学校の4年生くらいの時だった。
「僕に話しかけないで。ママの言ってることは、どこかおかしいよ。聞いていると、頭が痛くなってくるんだ。」
そう言って耳を手で塞いで、かおりの前から逃げていった。
テレビの音声を嫌がり、家中のテレビのコンセントを引き抜いて回った。夫がいて、ニュースを見る時には、自分の部屋へ逃げこんだ。新聞や雑誌を目にすることすら嫌って、そういうものが置かれているそばを歩く時には、半分目を閉じて、急いで駆け抜けるような有り様だった。
やがて、街を歩くこともできなくなった。駅のアナウンス。通りかかった店先で繰り返されるコマーシャル。スーパーマーケットに流れる歌謡曲の有線放送。右翼の街宣車。
普通の人間なら、多少うるさく感じることはあっても、たいていは大して気にもしないで聞き流してしまうそれらの音声に、奏は過剰に反応し、忌み嫌い、疲れ果ててしまうようだった。
かおりは最初、耳の異常を疑った。聴力が良すぎるかなにかして、それでこんな状態になってしまうのではないか、と。
だが、大きな大学病院の耳鼻科で取ってもらったオージオグラムは、ごく平凡な子供と変わらず、医者は、耳が聞こえすぎるなどということはない、と断言した。
「それだったら、日本の歌謡曲は嫌がって、英語のロックやクラシックなら聞ける、なんて、おかしなことにはなりませんよ。だいたい、妹さんとは普通にお喋りできてるんでしょう?」
その通りだった。奏は、ぴりかとなら、ごく普通の大きさの声で会話していた。内容はなんだかちんぷんかんぷんだったが、時々は、子供部屋のドアを通して、廊下まで聞こえるほどの笑い声を立ててもいた。
「そもそも、大きな音が一律に嫌いなら、ドラムを叩きたがるなんてことはあり得ません。それに、耳だけが原因なら、看板とか、電柱のポスターの文字を見ることすら嫌がる、という行動の説明が、全くつかない。」
そう言ってその耳鼻科の医師は、少しの間、かおりの顔色をうかがってから、言いにくそうに切り出した。
「僕はこれは、脳の方の問題じゃないかと思うんですがね。」
「脳?」
思わぬ言葉に、かおりは一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
ばかげている。自分の息子に、脳の問題など……
「専門ではないので、なんとも言えませんが、発達に、なんらかの偏りがあるんじゃないでしょうかねえ。一度、言語聴覚士にお会いになってみたらどうですか? うちの小児科にも、何人かおりますから、受付で言って頂ければ、予約をお取りできますけど……」
その時は、曖昧な返事をして、そのまま帰った。
ばかげている、と強く思った。わたしの息子に、そんな問題があるわけはない。
あの病院には二度と行かない。人の息子を気違い扱いするような、失礼な、礼儀知らずの、二流のやぶ医師のいる病院など。
そうして、ともかく、様子を見ることに決めた。あまり困ったことを言う時には、強く叱った。大丈夫、これはきっと一時の事だ。成長すればなくなってしまう。わざわざ夫に報告するようなことはなにもない。
夫に報告するようなことは、なにもない。
学校から呼び出しがあったのは、私立中学の受験も近づいた、6年生のある日の事だった。
成績のことであるはずはなかった。奏は優秀な子供だった。IQは150以上あり、テストの点数は常にトップだった。
「ですから、あまり、厳しいことは言いたくないのです。ですが、この生活態度ですと、どうしても内申に、何一つ書かずにおくというわけにもいきませんので……」
奏は学校で、ずっと耳栓をしていた。NASAが開発した、高性能の耳栓。
教科書も、ほとんど開かないということだった。新しい単元に入った日に一通り目を通し、その後はずっと窓の外を凝視しているか、固く目を閉じて、リズムを取るような動きをしているという。
「他のお子さん方とも、一切交流しようとはしませんし、掃除やグループ学習となると、どこかへ隠れて出てこないこともあります。指示を出しても、もちろんなんの反応もしません。こちらが強い態度に出た時だけ、おもむろに耳栓を外すのですが、なんと言うか、こう……教師をバカにしているとでも言いますかね、人を食ったような受け答えで……正直、扱いに困っているようなわけでして。」
そう言って、その初老の男性教師はふうっとため息をついて、小さな椅子の背もたれに体を預け、黙りこんだ。
そうして後はもう、こちらがどういう反応を返すのか、楽しんで観察している、という風だった。
こんな貧相な男、もしも夫が隣にいれば、わたしに向かってこんな態度は取れなかったはず。そう思う一方で、これが夫の耳に入るようなことはあってはならない、なにがあっても、ここで食い止めなければ、という危機感も働く。
「……申し訳ございません。全て、わたしの教育の……至らなさで……」
泣きまねをしよう、と思ったのが先だったか、涙が溢れるのが先だったか。
これは泣きまねだ、わたしはこんな男に屈服してなどいない、そう確信しながらも、我ながらなんとたくさんの涙が流せることか、とびっくりしてしまう。
「いやいや、お母さん、そう、ご自分ばかり責めるのはよくないですよ。」
そう言いながら、ぽんぽんと肩に触れてくる。汚らわしさに反吐が出そうになるが、今はともかく、泣き続ける必要がある。
「いや、私としましても、あれだけの優秀なお子さんの人生を、これだけのことで躓かせてしまうようなことは、始めからしようと思ってはおりません。ただ、メンタルな部分で何か問題があってこのような行動に出ているのでしたら、保護者のかたになんのご報告もしないでいるのも、かえって良くないかなあと、ちょっと思っただけなんでして……。」
「主人には……」
泣き声の下から、絞り出す。
「わたくしの方から伝えます……。しばらく、もうしばらく、様子を見て頂けませんでしょうか……」
「はあ、もちろんです。」
あとはなんとか誤摩化して、学校を出て、車に乗った。
泣きながら運転した。あちこちの塀や電柱に、ミラーを何度もこすった。一時停止をうっかり無視して、右側から直進してきた軽トラックにぶつかられそうになり、激しくクラクションを鳴らされた。屈辱だった。激しい悲しみは、やがて激しい怒りに変わった。
家に帰ってから自分がしたことは、覚えていない。(思い出すつもりはない)
気がつくと、薄暗くなった部屋の隅で、鼻血を出した奏と、頬に涙を伝わらせたぴりかが、二人しっかりと抱き合って、無表情でかおりを見上げていた。
→next