9
落下物
がさり、と再び枝がしなる。海斗はいつのまにか、手のひらにじっとりと汗をかいている。
「落ちるなよー、ぴりかたん……」
と、高橋先輩が、祈るように呟く。
「大丈夫、あの子は……」
と、自分に言い聞かせるように、よーこ先輩が呟く。
がさり、がさりと、順に高いところにある枝が揺れる。葉っぱの間から見え隠れするぴりかちゃんは、スカートのままだったけれど……でも、誰もそんなことは、一言も口に出さなかったし、問題じゃないという風だったので、海斗も黙っていた。
ぴりかちゃんが、その次の枝に足をかけた時、パシッ! と嫌な音がした。きゃあっ、という小さな叫びが、女子たちから漏れる。
「ぴりかちゃん! 無理はするな、引き返せ!」
と、小笠原先輩が叫ぶ。
「……大丈夫、今……上の枝つかんだから……」
そう、言ってよこすぴりかちゃんの、声に含まれる真剣な響き。それだけで、下にいる全員が、今がほんとうに真剣勝負なんだと知って、握りこぶしに力を入れる。
「……おっけー! ナイフ、ちょーだい!」
すぐに天野が、つないだ竹竿を差し上げる。
「もーちょい、高く……届いた……おし、ヒモ、切るよ……」
すぐに下のみんなが、福岡さんが持ち出してきた布をぴんと張って、できるだけ高くに差し上げる。
猫の声がやんでいる。自分の状況がわかって、おとなしくしているのか……あるいは、もう鳴く元気もないほど弱っているのか。緊張が高まる。
「みんな、聞こえる?」
と、ぴりかちゃんが、ひと際高く叫ぶ。
「聞こえる! なに?」
「ネコ、ケガひどそう。足、血がいっぱい出て、ぶらぶらになってる。だから、逃がしたら多分ダメだと思う。捕まえて、お医者さん連れてかなきゃ。」
「わかった、そのまま捕獲する!」
「最後のヒモ、今から切るよ……落ちたよっ!!」
「それーっ!」
ぽーんと一回、布の上で猫がバウンドする。そこからすぐに、ケガを押して体勢を整えて逃げ出そうとするのを、わーっと取り囲んで布を袋状にして、すっぽりと包みこむ。
「捕まえた!」
「やったー!!」
「よかった……よかった……」
大沢先輩が、今度はうれし泣きに泣き崩れ、高橋先輩と三浦先輩は普段の反目はどこへやら、がっつり腕をクロスさせる。文芸部の女子たちが、袋から猫を、上手に段ボール箱に移し替え、
「大丈夫、ひどいことしない……ケガが直ったら放してあげるからね……」
と、優しい声をかけてやる。
海斗も、誰かと「やったね!」なんて言い合いたい気分で、天野のほうを見てみる。
でも、福岡さんがもう、向かい合って立っていた。
ま、しょうがないよね……と思い、振り返ったところを、よーこ先輩の胸にぎゅむうっと抱きしめられ、うひゃあと悲鳴を上げた瞬間、
ぱきっ!
と頭上で、心臓が凍るような音がした。
「あっ……はにゃ……ふにゃっ……」
ばきっ……ぱきっ……みしみしみしみしぼきっ……
折れた枝が、先にドサドサッと2本ばかり落ちてくる。羽状のニセアカシアの小さな葉っぱが、雪のように降り注ぐ。それに続いて、
「あれーっ!!」
という悲鳴とともに、ぴりかちゃんが落下した!
「ぴりかーっ!」
福岡さんが駆けよる。天野も、高橋先輩も、三浦先輩も、岩村先輩も駆けよる。よーこ先輩と小笠原先輩も駆けよる。みんな駆けよる。
海斗も駆けよる。みんなが手を差し出し、受けとめられる体勢を整える。
だが、ぴりかちゃんは、真っすぐに落ちてはこなかった。折れた枝のすぐ下の枝に、革手袋を嵌めた手で、がしっ、とつかまり、
「ああさえしなけりゃ……」
などと呟く。その枝がまた折れて、そのまた下の枝に引っかかる。
「だって、ぴりかは、ああいうふうに、」
と、言い終わらないうちに、その枝がみしみしとしなって折れ曲がり、そのまた下のまた下の枝に捕まって、
「だって、ぴりかは、ああいうふうに、」
べしっ、とその枝が折れる。
「そりゃ、もちろん、すこしは……」
また折れる。
「やっぱり、ぴりかが、」
折れる。
全員、緊張感が薄れまくりになってくる。
「……なにを、ぶつぶつと……?」
と、三浦先輩が、手を差し出したまま、呆れた口調で呟く。さっきから、もう出典がわかっているらしい岩村先輩が、腰を屈めて苦し気に腹を押さえながら、
「クマの……ピーさん。」
とだけ言って、ついにぶははははっと吹き出してしまった。海斗にはわからなかったが、しかしぴりかちゃんが、こんな状態でまだ体を張って冗談をやっているらしい、ということだけは、よぅくわかった。
やがて、いちばん最後の枝に引っかかって、とまる。
「そこへぶら下がれ。」
と言いながら、天野が手を伸ばす。ぴりかちゃんがぶら下がると、それでもう、天野が安全に抱き下ろしてやれる高さだった。
「ブラボーっ!! おつかれ! よくやった、ぴりかちゃん!」
ぱちぱちと、一斉に拍手が起こる。
「やっぱり、ぴりかが、あんまりきゅうりがすきだから、いけないのさ。……あー、怖かった、どきがむねむねしちった!」
そう言って、ぴりかちゃんやはきゃはははっと笑い、スカートのポケットに手をつっこんだ。
「ん?」
急に様子を変えて、ポケットをごそごそかき回して、ひっくり返す。
「ない。」
と言って、あたりの地面を見回す。
「落としちゃった。」
「なにを落としたの? 鍵? 定期?」
と岩村先輩が言って、一緒にあたりを見回す。
「違うの、さっき取ったばっかしのやつ……あとで食べようと……あっ、あったー!」
雪のように散り敷かれた、緑色の、ニセアカシアの葉に混じって……
まっぷたつに折れた、新鮮なキュウリが落ちていた。
海斗の顔から、血が、ざーっと引いていく。
「いやー、労働のあとのあとのきゅうりはまた、かくべつ、かくべつ。……ん?」
天野が、ぴりかちゃんの前に、ぬーっと立ちはだかる。
その身長差、ゆうに40センチ。
ぴりかちゃんは、キュウリを頬張った口をホケッとあけて、なんだ? なんだ? という顔で、天野を見上げる。その顔に、わけがわからないなりに、なにか……本能的な危機感のようなものが、次第に色濃く、浮かびはじめる……
「貴様かーっ!!」
と、天野が吠えるのと、ぴりかちゃんがダッシュするのと、多分、全く同時だったと思う。コンマ数秒の差で、追って天野も走りだす。
どっちも、すばらしく足が速かった。ウサギと狐のレースを見るようだった。だが、ストロークが長い分、天野が有利だ。
置いてけぼりを食った残りのメンバーが、ドタバタと集団で追いかけ、中庭の真ん中で追いついた時にはもう、ぴりかちゃんは天野の手で脇腹を捕まえられ、空中に吊り下げられていた。
「うにゃーっ!! うにゃーっ!! うにゃーっ!!」
足を、必死でばたばたさせながら、まるでさっきまでの猫のように叫び続けるぴりかちゃんの目の、焦点がどこにも定まっていない。わけのわからない恐怖で、パニックに陥っているみたいだ。この女子を、ここまで精神的に追いつめるとは……と、海斗は改めて、我がルームメイトの不気味度の高さに感服する。天野晴一郎、恐るべし。
「人は、育てる者と盗む者とに分かれる……。」
どこか、遠くを見るような目つきをして、天野が、さっきも使ったセリフを、もう一度繰り返す。
「畑荒らしは、太古の罪だ。獣であれば致仕方ない。だが、人になろうと思うのであれば、覚えねばならん決まりごとはある。お前は、人となるか、獣となるのか……?」
ぴりかちゃんはもう、叫ぶこともできずにいる。涙目になりながら、闇雲に手足を振り動かすばかりだ。
「言葉がないのは、獣の証。」
と言って、天野はぴりかちゃんの体をひょいと振り上げ、小脇に抱えこむ。
怒っているにしては冷静に過ぎ、怒っていないにしては真剣に怖すぎる、あの無感情な不気味っ面のまま、片膝をついて腰を落とし、立てた方の膝の上に、ぴりかちゃんをうつ伏せに固定して……
ぱっ、とスカートを、捲り上げた。
パンツが、丸見えになった。ぴりかちゃんのパンツは、水色の地に、白のレースの縁飾りがついていて、小さいかわいいかえるがいっぱいプリントされた、股上の浅い……いや、そんなことはどうでもいい。ともかく、そのかわいいかえるのパンツに包まれた、小さなおしりを。
天野は、ぱちーんと、力一杯、ひっぱたいたのだ!
場の空気に、ぴしっ、と亀裂が入った。学内の奇人・変人・はみ出し者ばかりが集まったマイナークラブハウス。誰ひとりとしてマトモでも、常識的でもない部員たち。
その、強者ぞろいのメンバーの全員が、唖然として、
(それは非常識だろうー!!)
というつっこみを、各々の心の中で入れた、はずだ、と、海斗は、固く信じる。
「獣をしつけるには、痛みを用いねばならぬ時もある。」
と言って、天野はさらに、ぴりかちゃんのおしりを、ぴしりぴしりと叩き続ける。
「覚えねばならぬのだ、人の子として生きるために。」
「や……やめろ、天野、やっちゃいけないことをやってるのは、お前のほうだよ!」
叫んだ後で、海斗は気づく。
あれっ。……今のセリフ、もしかして……僕?
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