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「ぴりかちゃんは……知らなかったんだよ。畑のもの取っちゃいけないって、多分、今まで教えられことがなかったんだ。キュウリが大好きで……いつもおやつに持ってくるけど、それは誰にも、親友の福岡さんにだって、一本もくれないんだよ。でも、お前のキュウリは、すごくおいしくて、おいしさのあまり感動して、これは分け合うべきものだって言って、僕にまで分けてくれた。それくらい、特別だったんだ。それくらい、人を感動させるものを育てたんだから……もう、いいじゃんか。これからはもう、勝手に取っちゃいけないんだってわかるよ。もう、しないよ。だから……ともかく、女の子にそんなことをしちゃダメだ。男子が女子に暴力を振るうのは、どんな場合だって、いちばん重大なルール違反だぞ!」
天野はぴりかちゃんを見下ろし、黙ったまま、しばらく考えこむ。
それから、口の中だけでぼそりと、
「ルール……」
と呟いて立ち上がり、ぴりかちゃんを静かに、地面に下ろす。
「だ……大丈夫? ぴりかちゃ……」
目が、うつろになったまま、ぴりかちゃんはぐらりと倒れかかり、2、3歩よろめいて、海斗の腕の中に倒れこんできた。
どぱーん、と脳の中で、子供の頃に見た花火大会のスターマインが、30万発くらい、一斉に打ち上がったような心持ちが、した。
テーブルの上に、ぽん、と本が置かれる。
『日本という国』。日の丸をバックに、腕を組んで考えこむ、かわいい少年少女のイラストの表紙。
見上げると、岩村先輩が、定食のトレイを持って、にこにこと人のいい笑いを浮かべて立っていた。
「ここ、空いてるか?」
「あ、空いてるっす。どうぞ、どうぞ。」
ざわざわと騒がしい寮の食堂で、お互い、いつもより少し多めのおかずを取っているのを見て、
「いや、今日は、腹がへったな。」
「へりましたね。」
と、笑い合う。
「天野は?」
と、岩村先輩が、食堂の中をざっと見回して尋ねる。
「さあ……あれから、見てないっす。」
「あれもしかし、変わった男だな。」
「変わってますね。」
「しかし、高杢、役得だったな。」
と、冷やかすように、けれど決していやみではなく、岩村先輩が言う。
「よくやったじゃないか。俺なんかあまりのことに、思考停止して動けなかったよ。」
「いや……」
とだけ言って、海斗は俯き、いたずらにばくばくと飯をかっこむ。
思い出すだけで、体じゅうが熱くなるようだ。
口ごもって、あまり会話の続かない海斗を、岩村先輩は察したように、あとはもう大して口も利かずに、夕食を終える。
この後は、10時までに風呂に入って、後は自由・学習時間。そして、11時までに消灯だ。
「その本、やるよ。俺はもう読んじゃったし、分厚い方も持ってるから。」
「いいんすか?」
「ゆっくり読めよ。光輝には言っといてやる。」
そう言って、先に席を立って自室へ帰る岩村先輩を見送りながら、なんか、よかったな、と、海斗は思う。
家を出てよかった。寮に来てよかった。歴研に入ってよかった。そして、今日、あんなふうに行動できて、とてもよかった。
目を閉じると、ぴりかちゃんの体の感触が、鮮やかに蘇る。多分、二度とない。そして多分、一生忘れない。
もらった本をじっと眺めて、読んでみよう、と海斗は思う。
丹念に、一字一句余さず、この脳みそに、刻みつけるように読んでやるんだ。
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