第六話、髙橋奈緒志郎、捨て子拾いの血を知る縁 1
1 女の子の望み
「あたしと自分の家族と、どっちが大事なの?」
という、1年越しの彼女からの質問に対し、高橋奈緒志郎は、
「それはもう、自分の家族が大事に決まっている。」
と、ばか正直に即答し、ぱちーんと頬をひっぱたかれる。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待て。話は最後まで聞け。」
「いや! もう、別れる!」
駈け去ろうとする彼女の腕を、必至で掴んで引き止める。
「聞けって、だから。あのな。外でたまに会う人間より、ひとつ屋根の下に生きてる人間関係に軸足を置いとく、っていうのは、生活の基本なわけだよ。そこが揺らいでると、外の人間に対しても、しっかりと核のあるつき合い方ができなくなるだろ? 弥生、俺のこと、ぶれてないとこが好き! なんて言ってたじゃん。そのぶれてない俺って、あの家族との生活からでき上がってきてるわけ。わかる?」
手首をしっかり握って、こんこんと説いて聞かせる。弥生は自由な方の手で目を押さえたまま、背中でそれを聞いている。
「わかるだろ? 見方を変えたら、俺ってすごいお得な男だと思うよ。だってマイホーム主義だもん。結婚なんかしたら最後、もう、外で仕事だなんだで接する人間の誰よりも、自分ちの奥さんを、いーっちばん大事にするんだぜ? 毎日、家事も手伝うし、子供の世話だってするだろう。休日も絶対に家族優先だし、スイートテンにダイヤモンドが欲しかったら買ってあげるし。な、弥生、機嫌直してくれ……。来週末は、全面的に、弥生とだけ過ごすって約束する。だから、今週だけ、ちょっとかんべんしてくれ……な?」
ゆっくりとたぐり寄せる。大物のマスをタモに入れる時みたいに、そーっと、そーっと。
首尾よく腕の中へおさめてから、仲直りの熱いキス。それから、ぎゅうっと抱きしめる。
「……ナオくん。」
と弥生が、囁くような声で言う。
「なに?」
「あたしのこと好き?」
「好きだよ。大好きだ。」
「さっき言ったことは、全部ほんとう?」
「ほんとうだとも。」
「あたしと結婚して、家族になって……そしたらずーっと、あたしのこと一番大事にしてくれるのね?」
「そのつもりだよ。」
「最初は、二人きりで暮らすのよね? 新しい家で、新しい家族を作るのよね?」
「ん?」
そこで少し、間を置いてから、またばか正直に答える。
「いやー、それはちょっと、無理なんじゃないかな。俺、長男だし。」
そして、本日2発目のビンタをくらう。
4月。新しい季節。
「別れ話には、もってこいの季節でありまするな。」
と、自嘲的に呟きつつ、気がつくと奈緒志郎は、よく知った道を歩いている。
取りたて免許と、買ていたて中古車。学園の来客用の駐車場を利用してみたりして、それだけがちょっと新鮮だったけれど、あとは3年間通い慣れた坂道。そして、踏み分け道。
ニセアカシアはまだ、芽吹いたばかり。大学が始まるのは、まだ半月ほど先の話。
同学年の仲間のうち、気心の知れた連中はみんな、他所の土地の大学へ行ってしまった。よーこちゃんと朔太郎は東京、松野は大阪、エリちゃんは神戸。
今頃、新しい住処を整えたり、そのまわりを探検したりで、忙しく過ごしている事だろう。結束は固かったが、依存し合う関係ではなかった。卒業式で一騒ぎした後は、
「ほいじゃー。」
とか言って手を挙げて別れ、しみったれたメールのやり取りなども皆無。でも、帰省してくれば多分、
「おー。」
とか言って手を挙げて、また昔通りの無駄口を叩いて笑えるのだろう。
どうして彼女っていうのは、そういうわけにはいかないんだろな?
「いくわけないじゃないですか。」
と呆れたような、小馬鹿にしたような口調で言って寄越したのは、和琴部の、1年生だった頃の、沢渡美優だったっけ。
「学校では距離置いて、放課後はすぐ帰宅して、休日は家族でって、それじゃ一体、なんのためにつき合ってるんですか?」
あの時は……そうだ、小川環ちゃんにふられたんだ。それとも、笠巻理沙か? 江川萌美だったっけ? 忘れたな。ともかく、その相手の子は当時、文芸部の1年生で、美優ちゃんのクラスメイトだった。その関係が破れると同時に、文芸部を退部して、本校舎に部室のある、もっとメジャーな部に転部していった。
「そーとー泣いたみたいですよー。今朝なんかもう、目が、ぽっこーん、て腫れちゃってて。」
「泣くくらいならふらないでくれればいいじゃないか。」
ばん、とテーブルに拳を叩き付けて、奈緒志郎は言ったのだ。
「こっちは嫌だ、って言ったんだよ。別れたくないって。それを向こうが『もう限界です』とかなんとか、わけのわかんないこと言って断固」
「それをわけわからんって言ってる時点でアウトなんだよてめーはよ。」
急に人格変換してそんな風にすごんでみせたので、びくーっ、と肩をすくめて口を噤んでしまった。
「……なーんて。女の子同士だと、わりに言っちゃったりしてますねえー。」
「こっ……こわいぞ美優ちゃん。」
「結局、彼氏向きじゃないんですね、高橋先輩って。」
向いてない?
「……どういうことだ?」
「誠実なのは疑いませんけど……『彼氏』ってのは、概念として新しいんですよ。明治時代に『恋愛』が輸入された時から、さらにずーっと変化しちゃってるんです。単に未来の伴侶、ってわけじゃないんです。ファンタジーなんです。」
「わからん。わかるように説明しろ。」
「説明なんかできません。あたしにだってよくわかんないんだから。いいじゃないですか。結局先輩って、それで毎日充実して暮らしてるんでしょ? 学校で勉強して、部活来てバカやって、家族は仲良しで。」
「それじゃ足りないだろうが。」
「性欲の処理の問題ですか?」
一見、清純な15歳がずばっと言い切るから、かなり驚いて、そーゆー問題ではない、ぜったいにないっ! とか否定するのも忘れて、まじまじと顔を見つめてしまった。
美優ちゃんも、まじまじと見つめ返してきた。
「それだったら……先輩の方でも、始めっから『彼女』とかは求めないで、そういうファンタジーを必要としないタイプの子と、ざっくりつき合えばいいじゃないですか。」
あたしみたいな、と最後に、言ったような、言わなかったような。発作的に口に噛み付いてしまったから、記憶が定かでない。
それからひと月くらい、つき合った……いや、つき合ったと言えるのかどうか、わからんな、あれは。時間が空いて、会える時にだけ会って、余計なご機嫌取りはしなくていい。会話すれば、二人きりの時でも、部活の時と似たような話題、似たようなノリで、楽しく笑っていられる。プラス、濃密な性関係。
「ちがうな。やっぱなんかちがう。」
そう言って、ベッドの上で腕を組んで、沈思黙考を初めてしまった奈緒志郎に、
「じゃ、この辺で終わりにしときます?」
と、特別淋しそうとも言えない顔で言った。
「いいのか、そんなので?」
「そりゃもう。楽しかったですよ。」
そうしてテキパキと衣服を身に着けてから、こめかみのあたりに、ひとつキスをして言った。
「さよなら。あたし、高橋先輩は、そのままですごくいいと思いますよ。」
「俺はそうは思えないんだよ。よくないからふられるんじゃないか。」
「なら、次の子はせいぜい、満たしてあげることですね。何を望んでるのか、よく考えてあげて。」
そう言って、出て行った。以後も、特に何の変化もなく、平静に先輩後輩の関係を続けている。
よくわからん娘だ。ともあれ、その忠告を受けたればこそ、弥生とはこうして、1年以上続いた。
しかし、満たしきれなかったらしい。
もう、なにがなにやら、さっぱりだ。