10
自由へ
朝早く、瑛兄に叩き……いや、蹴り起こされる。
「働け。」
ずしっ、と腹に踵落とし。起きろもおはようもすっ飛ばして、そんな第一声。
「な……なんじゃあ、瑛兄。今、何時じゃ。」
「今日は母ちゃんは休みじゃけえ、代わりにおまえ働け。」
むすっと腕を組んで、布団の脇に仁王立ちになっている。その腫れぼったい目を見ると、昨夜はあまり、眠れていない……というか、徹夜らしい。
「おはよう、瑛一君。僕にできることがあれば手伝うが。」
ベッドの上に起きあがって、晴一郎が尋ねる。
「いや、おまえは友達が来とるんじゃけ、一緒に遊んどけ。」
「今日は特に、予定はないのだ。」
早々と起きあがって蚊帳を抜け出し、着替えをしながら晴一郎が言う。
「皆、自分の時間は自分で潰せる友人たちだ。僕がいなくても、好きに遊ぶだろう。」
「ほうか。なら畑、頼むわい。表にトラック停めてあるけえ、乗ってくれ。」
言われて晴一郎は、心なしか、明るい顔つきになって、足取りも軽く部屋を出ていく。
変態じゃな! と祐介は思う。あんなしょぼくさい作業に、わざわざ首をつっこんで嬉しがる奴なんて、変態以外のなにものでもないわい。
瑛兄と二人だけになってから、のそのそとジーンズを穿きつつ、祐介は尋ねる。
「……あの、じーさんは?」
「…………。」
「まだ、うちにおるんか。」
「…………。」
「もしかして、これからずっと、おるんか。」
「…………。」
「あれ、ほんまに、おれらの親父なんか。瑛兄と、スグ兄と、おれの……」
「喋っとらんと、さっさと服着んかい!」
怒鳴りつけておいてから、ぽつんと付け加える。
「……おれは、あの家、出る。」
「あ?」
「当分、店に寝泊まりする。あんな奴と、なにごともなかったように、一緒に生活したりはできん。」
「……母ちゃんは?」
「あの家で、あいつと暮らすそうじゃ。」
「おれは?」
「おまえと優は、好きにせい。」
「好きにって……そんな。おれじゃって、昨日会ったばっかりのおっさんと、一緒に暮らしとうなんかないぞ。」
「じゃったら、自立せえ。」
……最初っから、それを言うために……
目を、かっきり見開いて、無言で見つめ返す祐介に、瑛兄は、噛んで含めるように言ってよこす。
「高校を卒業するまで……あと、1年と半年だけは、店の屋根裏に、一緒に置いてやるわい。その後は、自分で自分の食い扶持を稼いで、好きなように生きていけ。」
「好きなようにって……おれ、自分になにができるか、まだ全然」
「甘ったれんな、このクソガキが!!」
ビリビリと、鼓膜が震える。
いや、鼓膜じゃない。おれの全部が震えている。育ててもらえる、食わしてもらえる、養ってもらえる時代がもうすぐ終わることに、おれの魂の全部が怯えている。
「なにもせんと、口開けて待っとれば、好きなことが向こうから来てくれると思うな! 狩りに行け。あと1年半じゃ。時間はもうない。その後は、どんなに泣きついてきたって、もうエサなんかやらんぞ!」
「…………。」
「とっとと外へ出え!」
まだ着ていなかったTシャツをひっつかんで、部屋を飛び出す。門の外へ走る。走る。走る。
前庭に、ぴりかちゃんがいた。薄い夏物のパジャマを着て、朝の光を浴びながら、山の頂を見つめて立っている。髪にライオンのたてがみのような寝癖をつけて、眩し気に目を瞬きながら、祐介を振り返る。
「おはよ~。」
キュッとサンダルの底を鳴らして急停止する。
……暢気な街の女子高生め。金持ち学校のお嬢ちゃんめ。おまえの言ったことなんか、なんにも当たっとらん。じじいは確かに居座ったが、それでよかったことなんか、なにひとつないじゃないか。
なんだか無性に、この顔をひっぱたきたい気がする。今しがた自分が、瑛兄にぶたれたように……いや、おれは本当にはぶたれとらん。でも、ぶたれたも同然じゃ。それをそっくりそのまま、この子にくれてやりたい。この白いほっぺたに、おれの真っ赤な指の跡をつけてやれたら、どんなにさっぱりするじゃろう……。
「……おもしろいぞ、ユースケくん。」
まるで、その考えを見透かしたように、にたっ、と意地の悪い笑いを浮かべて、ぴりかちゃんが言う。
その、目が……怖くて、手が出せない。
睨み合って、睨み合って……それからふっと、ぴりかちゃんの笑顔が、あのハチミツみたいな顔に、逆戻りする。
「そこからなら、もう、どこへでも行けそうだね。らい・かー・ろりんすとーん。」
そのまま庭のほうへ、ぴょんぴょん飛び跳ねて行ってしまう。
気勢をそがれて、ぽけっと突っ立ったまま、その背中を見送る。
軽トラを運転しながら、瑛兄はじっと行く手を見つめて、一言も口をきかない。
隣に座った晴一郎に、小さい声で尋ねてみる。
「なあ。らいか、ろりんすとーんて、どういう意味じゃったか?」
「Like a rolling stone? 転がる石のように、という意味だが……」
「…………。」
「まるで、獣の言い草だな。」
そう言って、晴一郎も前を向いて、黙りこんでしまう。
ごとごとと、トラックが揺れる。窓から見えるのは、畑と牧草地。その向こうに、飛天山の頂が、青い空を背景にして、そそり立っている。
おれは、あそこから、転げていくんじゃ……。そう思うと、鼻の奥がツンとして、むせび泣きたいような気持ちに襲われる。だが一方で、あんなふざけた女の子に、見下されるようなみじめな人生だけは、決して送らないぞ、と、強く思う。
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