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最も大きな望みが、鼻先にぶら下げられる。
おばあちゃんが泣いていたのには、ビックリ仰天だった。
なんて言うか……そう来ましたか! って感じだった。いつもより濃いめのお化粧をして、いい靴を履いて、ハンドバッグを抱えて。なんだか、お葬式に来た人みたいだ。
「……それでねえ、せんせ、あの子言ったんですよ、おばあちゃん、そのうちあたしが大きくなったら、温泉旅行連れてってあげるからねって、もうほんと、親思い、家族思いのいい子でねえ、こんないい子がなんでって、いい子だから目つけられるのかねえって、最近の子は、なんかすぐキレるとかゲーム脳とか、テレビでよく言ってますけどね、こんな桃李学園みたいな、いい家の子供さんばっかりの学校で、うちの紗鳥みたいな気の優しい子が、あんなに一生懸命やってた部活を、諦めなきゃいけないようなところまで追いつめられるなんて、もうかわいそうでかわいそうで……」
うわー、と紗鳥は、心の中で呻く。
おばあちゃんを真ん中に、内田一家が並んで座った長椅子の向かいには、柳場先生と、紗鳥の担任の先生、バレーボール部の新しい監督、それに、高等部の校長先生までが顔を揃えている。
みんなおばあちゃんの話に、熱心に耳を傾けている様子を見せてはいるが、眉根に寄ったシワだとか、口元の歪みだとかに、うんざりした気持ちが隠し切れないでいる。いったい、おばあちゃん、いつからこの調子で喋ってるんだろう。
入室してきた紗鳥を見て、お母さんが、
「さっちゃん……」
と小さな声で呼ぶ。それを聞きつけたおばあちゃんが、即座に、
「あーっ、さっちゃん。さっちゃあーん!」
と叫んで、紗鳥に飛びついてきた。
「さっちゃん……おばあちゃんもう、心配で、心配で……来ちゃったよ、先生様方にお願いしに……かわいそうに、あんた、かわいそうにねえ……」
そして、涙に濡れた小さな目をしょぼしょぼさせて、紗鳥の顔をまっすぐに見上げた。
その目を見た瞬間……紗鳥の中で、全くわけのわからないことが起こった。
泣けたのだ。
紗鳥の目からも涙が、どっと噴き出してきた。思考回路は『あたしの家族はこんなにも、あたしのことを大事に思って、心配してくれていたのだ』という激しい感動に、ほとんど完全に圧倒されてしまった。
「お、お、お・ばあ・ちゃん……」
途切れ途切れにそう呼びかけて、紗鳥はおばあちゃんの肩に、そっと手を置く。
「さっちゃん……あんた、つらかったねえ。あんなにがんばってたのに、こんな、こんな情けないことで辞めさせられてねえ、どれだけせつなかったろうねえ。」
そう言って、ひとしきり紗鳥にしがみついて泣いてから、おばあちゃんはくるりと先生たちの方を振り返り……ぱっと、土下座をした。
「先生、この子ほんとにバレーボールが好きで、小学校の文集にも、絶対日本代表に選ばれるんだって書いて、前の監督さんがスカウトにいらした時、アタシらはほんとに喜んだんですよ、これで、紗鳥の夢に一歩近づいたねって、それなのに、イジメなんかで辞めさせられて、こんな悔しいことが、家族として……」
「あー、どうかお祖母様、それは……」
校長先生が、慌てて椅子から腰を上げて、おばあちゃんを立たせようとする。だがおばあちゃんは、もう床から剥がれようとしない
長椅子の上で、お父さんが「くっ」と泣き声を上げて、顔を歪める。お母さんも、いつもの困ったような顔に、ハンカチを押し当てている。
あったかい家族。
あたしの、あったかい家族……。
「あの、お祖母様。一点だけよろしいでしょうか?」
冷静な声が、おばあちゃんのお喋りを遮る。柳場先生が、静かな微笑みを浮かべて話し始める。
「学園側にはもちろん、今、お祖母様が仰った通りのことをする準備がございます。監督にイジメを警戒していただき、場合によっては、加害生徒の停学処分なども、視野に入れていいかと思います。」
校長先生と監督の顔に、おいおい! という、焦った表情が浮かぶ。
「ただ、それはあくまで、紗鳥さんご自身が、バレーボールを続けたいという意志を持っていらっしゃる場合に限ります。私の聞いた限りでは、紗鳥さんは……」
「続けたいに決まってます! あんなに一生懸命やってたことを、なんで今更諦めなきゃいけないんですか、ねえ、さっちゃん!」
ぱっとおばあちゃんが、紗鳥を振り返る。
涙に濡れた目。またしても感激が、津波のように襲って来る。紗鳥の中で、ずっと曖昧だったここ数日間の出来事の意味が、急速に、整合性を持ったストーリーとして再構成され始める。
あたしは……不器用だけど、根はあったかい家庭の、大事なひとり娘で。バレーボールが大好きで。でもイジメられて、辞めざるを得なくて、それであんなヘンテコな場所に、一時期迷いこんだりもして。
それを今、おばあちゃんが、家族が、一丸となって回復させてくれようとしている。後はあたしが、うんと言えばそれでいい、それでなにもかも、慣れ親しんだ、元通りの生活に……あったかい、平凡な暮らしに……
ぶんちゃっ、ぶんちゃっ、ぶんちゃっ、という軽快な音楽が、意識の端っこに引っかかる。ごく小さな音量。
耳を澄ますうち、次第に高まっていく。ぶんちゃっ、ぶんちゃっ、ぶんちゃっ、ぶんちゃっ。次第次第に、面談室いっぱいに朗らかに鳴り響いていく。ぶんちゃっ、ぶんちゃっ、ぶんちゃっ、ぶんちゃっ、ちゃっちゃっちゃっ、ぶんぶんぶん、ちゃらっちゃちゃちゃんちゃん!
たーだーいーまーかんがえちゅう たーだーいーまーかんがえちゅう
たーだーいーまーかんがえちゅう たーだーいーまーかんがえちゅう♪
「あっ……すっ、すみません! 失礼しました! すみません!」
スクールカウンセラーの先生が、大慌てでポケットをかき回し、携帯電話を取り出す。
「い、今すぐ消しますので……ええと……あれ? うわあー。」
大慌てでキーを操作する度に、音がどんどん大きくなる。
こたえはなかなかみつからなーい
あっちかなこっちかなやっぱりそっちかどっちかなー♪
「湯浅先生、校内で携帯は……」
と、校長先生が渋い顔で言いかける。
「いやっ、知ってます! あのこれ、かかってきたんじゃなくて、アラームなんです。この後、5時から面談の予約があったので、遅れないようにと……」
「ああ。ならともかく、早く消して下さい。ご父兄に失礼ですよ。」
「は、はいっ。」
たーだーいーまーかんがえちゅう はーやくしてちょーだい
たーだーいーまーかんがえちゅう はーやくしてちょーだい
たーだーいーまーたーだーいーまーたーだーいーまーかんがえちゅう~♪
ぷつっ。
唐突に、歌が途切れた。
同時に、紗鳥の脳みその中に、ぽかっ、とした空洞ができた。あれ? あたし、今、なに考えてたんだっけ……
「し……失礼しました。では僕はこれで……」
照れ笑いを浮かべて、ヘコヘコとお辞儀をしながら、カウンセラーの先生が、ドアを開けて出て行こうとする。
「紗鳥ちゃん。」
敷居のところで振り返って、ひらひらと手を振る。
「……奥のほうの自分と、よく相談するんだよ。」
そして、ぱたんとドアが閉じられる。
「……えー……」
おほん、と咳払いをして、校長先生が話しだす。
「えー、つまり、一番大事なのは、内田君本人の意志、ということになりますか……」
それを合図に、部屋の中にいる大人たち全員の目が、一斉に紗鳥に向けられる。
「あ……」
ぱくぱくと、口だけ動かす。ついさっきまで、なにか決意しかけていた気がするのに……うまく思い出せない。
「あの、あたし……」
ギッ、とおばあちゃんの目が吊り上がったような気がした、その瞬間、ノックが聞こえて、ドアが再び開いた。遠慮がちに中を覗きこむ、楚々として、いかにも育ちの良さそうな女子生徒。
「失礼します。あのぅ先生、坂道に停まっていた赤いBMW……こちらのご父兄の方のものなんでしょうか? ちょっと今、タイヘンなんですけど……。」
(み……)
美優先輩!? と、声に出さずに済んだのは、別に紗鳥が、この後の展開を考えて、賢く立ち回ったからというわけではない。
聞くなり、お父さんが長椅子から飛び上がって、
「なにぃーっ!?」
という、天地がひっくり返ったような叫び声を上げたから、である。
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