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いちばん悲しいこと
「内田。なにを怒っている。」
またしても謡ちゃんの座席を占領した八雲くんが、えらく真面目な顔で言ってよこす。
「……別に怒ってない。」
と、紗鳥は応える。本当は怒っている。朝一番、八雲くんの顔を見るなり、なぜか昨日のあれやこれやが、どっと脳内に噴出してムカムカしてしまった。
そのあれやこれやは、なにひとつとして、八雲くんの責任ではない。
と言うか、むしろこの人は、全くと言っていいほどカンケーない。
なのに、責めたくなる。どうかしてよ、コレ! って、襟を掴んで揺さぶりたくなる。だから、顔を見たくない。うっかり本当にそんなことをしてしまわないために。
「なんだよー、またなんか巻き込まれてんのか? おまえ、よくよく受難体質だなー。」
「放っといて。」
「へいへい。じゃまたな。」
あっさりと立ち上がり、自分の座席に帰ってしまった。その周りを、すぐに何人かの男の子たちが取り囲む。からからと弾ける、明るい笑い声。
……お気楽な人。幸せな人! 友達が多くて、いつも楽しそうで、カッコつけてて。見るからに、なに不自由なく育ちましたって感じがプンプン漂ってて。
八雲くんだけじゃない。この学校の人たちは、基本、みぃーんなそうだ。
中学の時は、気づかなかった。自分の家族が、日本の標準、とまでは思わなかったけれど、どこも似たようなものだと思っていた。どこの家庭も、会話は基本イヤミ、または怒鳴り声で、内容はちんぷんかんぷんで、子供というものは、家族内でお母さんが仲間はずれになった時、慰めてあげるために存在するんだと思っていた。
早く大きくなって、なんでもいいから一山当てて。お母さんを、家族を、この状態から解放してあげる、その一抹の可能性のためにこそ、子供というものは産み育ててもらっているんだ、と思って、がんばってきた。
……ええ、この、恩知らずめが!
バレーボール部を辞めると告げた日、取り乱したおばあちゃんが叫んだ言葉が、今頃になってその意味を際立たせて、耳の中でぐわんぐわんとこだまする。
その通り。あたしは恩知らずのできそこないだ。ムダ飯喰らいのハズレくじで、冷酷で自分勝手な親不孝者。おばあちゃんがはっきりそう言うんだから、多分そうなんだ。
授業が終わるなり、紗鳥は教室を飛び出し、そのまま、学園の坂を下り始めた。
誰にも、なにも伝えてこなかった。それは、ついひと月ばかり前、バレーボール部でやったのと、同じことの繰り返し。
別に、いいような気がする……。大会に出るわけでもない、目的のある活動なんかなにもしない、超のつくマイナー部活。だいたい、部長のぴりか先輩にしてからが、しょっちゅう無断でいなくなるし、誰もそれを咎めたりしないし。
ランニングや発声なんかも、やったりやらなかったりだし。軽音部の人が八雲くんに会いにきて、そのまま演奏が始まっちゃったりもするし。誰かが古本屋で大人買いしたマンガを持ちこんで、全員黙々とそれを読み始めたり。なにかというとお茶が入って、お菓子が出てきて、時には信じられないことに、アルコールまで持ち出されて……。
そしてその間中、紗鳥はなにをしていればいいのかに悩み続けるのだ。
結局、あの人たちは、単なる変わり者の仲良しグループだ。お金持ちの気まぐれな坊ちゃん嬢ちゃんが、集まってぺちゃくちゃ騒いでいるだけ。あたしみたいな庶民の入る余地なんて、初めからありはしない。
我ながら、胸がムカつくほど卑屈な思いに囚われつつ、紗鳥はなんとなく、坂の下のコンビニに入ってしまう。別に、買うものがあったわけじゃない。ムダ遣いできるようなお金の持ち合わせもない。ただ、まっすぐ家に帰るのがイヤだっただけ。
でも、一旦店内に入ったからには、なにも買わずに出ていくのも、悪い気がする。
なにかないかな。買っても無駄にならない、手頃な値段のもの……そう思って、ぐるりと店内を一周したところで、
「あれま紗鳥ちゃん、おかいもの?」
ずるっと足が滑る。
雑誌コーナーに、ぴりか先輩がいた。なんでこの人こんなに小さいのよ、これじゃ外から発見できないじゃないの! と、理不尽な怒りをますます募らせる。
「部活どしたの~?」
「……先輩こそ。なにやってるんですかこんなところで。」
「今日IKKIの発売日なのね。もー『海獣の子供』の続き、気になって気になって……」
チュッパチャップスくわえてマンガ立ち読みして、この人小学生か? って言うかこのアメ、万引きとかしてないでしょうね!?
「でも、もう読み終わったんだな。ハー凄かった。じゃ、一緒に戻ろっか。」
「もど……」
……さぼるんです、あたしは。
ていうかもう、あそこへ行く気、ないんです。あんな、バカバカしいところ、二度と!
今にも本当にそう言ってやろうと息を吸いこんだ時、店のガラスの向こう、信号のある小さな横断歩道の手前に、見覚えのある赤いBMWが停車した。
運転席に、お父さん。助手席にはおばあちゃん。そして後ろの狭い座席に、ぼんやりした顔で窓の外を見つめている……
「お母さん。」
ほとんど声には出さず、口の中だけで呟く。
紗鳥が呆然と見つめるうちに、横断歩道の信号が点滅し始め、車道の信号が青に変わる。ぎゅるるっと音を立てて、BMWが急発進する。そして、学園の坂道を上っていく。
「戻ろ、紗鳥ちゃん。」
先に立って歩き出しながら、ぴりか先輩が紗鳥を振り返る。
「桃園会館に戻ろう。みんな待ってるよ。」
嘘! と紗鳥は、心の中で泣き叫ぶ。
『みんな』なんか待ってない。少なくとも、八雲くんは待ってない。あの人はただ、恵まれて育って親切なだけ。あたしのことなんか、本当は知ったことじゃないんだ……
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