5
父帰る
食堂の入り口に、不似合いな、ぴっかぴかの赤いBMWが停まっているのを見て、紗鳥はぴたりと足を止める。
裏に回りこんで、そーっと玄関を開ける。途端に、ものすごい口喧嘩の応酬が、耳に飛びこんできた。やっぱり、お父さんが帰ってきている。
「ただいま……」
口の中だけで小さく呟く。それをお母さんが、すぐに聞きつけて、茶の間から出てくる。
「おかえりなさい、さっちゃん。」
ほっとした表情。紗鳥の帰宅で、茶の間から脱出する口実ができて、喜んでいるようだ。
おばあちゃんが、早口でまくしたてている。どうやらまた今年も、あのBMWの自動車税を、家計から立て替えてあげなきゃいけなくなったらしい。
「売れ、あんなもの売ってしまえ、売って5年分の税金と車検代を返せ!」
なんて、喚いてはいるが、どうせ出してあげるに決まっている。去年だって「4年分を返せ!」と、同じことを言っていたくせに、
「あの子はあの子で、優しいところもあるから。」
とかなんとか、よくわからない理由をつけて定期預金の解約に出向いたのは、結局おばあちゃん自身だった。
お父さんはお父さんで、昔、死んだおじいちゃんにぶん殴られたとき、おばあちゃんが全然助けてくれなかったこととか、本当はレーサーになりたかったのに、無理に調理学校にやらされただとか、子供の頃からの恨みつらみを、ぶちぶちと繰り返す。
「店は姉ちゃんが継ぐから、あんたは好きなことをしてればいいと言ったくせに。あいつがあんな男と逃げたからって、なんで俺にお鉢が回ってくる? そんなに金、金、言うんだったら、先に俺の人生を返せ、クソババア!」
それだけ喧々囂々やっているのに、茶の間には、普段は「電気代がもったいない」と言ってめったにつけないクーラーががんがん利いていて、テーブルの上にはビールのコップが出ていて、浅漬けと柿の種なんかが置いてある。
そしておばあちゃんは、唾を飛ばしてわあわあ文句を言いながらも、お父さんのコップが空く度に、素早く、かいがいしくビールを注いであげている。
「……今日は学校、どうだった?」
そんな質問、いつもしないくせに。お母さんは、紗鳥が自分の部屋へ上がるのに、ぴったりとくっついてくる。よほど逃げたいらしい。
「うん……いつもと同じ。」
「ごはん、ここへ持ってくるから。茶の間は、お父さん来てるから……」
突然、どかどかっ、と階段を上がってくる足音がした。お父さんが紗鳥の部屋に入りこみ、もう半分ボタンを外していたブラウスの袖を、乱暴に引っ張る。
「どういうことだ! ああん?」
なにが? と紗鳥は思い、胸元を押さえて、困惑して黙りこむ。
お父さんの話は、いつもこうだ。具体的なことはなにひとつ言わないまま、「なんでだ」「違うだろ」「ダメだそんなん」なんていう部分だけを、突然大声で投げつけてくる。それでこちらがなにも答えられないでいると、「なぜ黙っている」と、また怒り出す。
「あの、お父さん。それじゃさっちゃん、なにを聞かれているのか……」
「おまえは黙ってろ。」
囁くような声で、お父さんは言う。お母さんはもう、とっくの昔に逆らうことをやめている。だから、ほんのちょっとの囁き声で充分なのだ。
「なんでそんな、勝手なことをする。」
「……なんの話?」
「おばあちゃんになんの相談もなく、部活辞めたんだってなあ。」
「…………?」
しなくてなにが悪いの? それで、どうしてお父さんに怒られなきゃならないの?
「おばあちゃんガッカリしてたじゃないか!」
それが世界一の重罪であるかのように、お父さんがカミナリを落とす。
「おまえが、プロの選手になるのを、楽しみにしてたんだぞ。全国大会の時の新聞、今も仏壇にあげて、親戚中に自慢して。それが、イジメ? そんなくだらないもんで勝手に、あっさり諦めたりして、いいと思ってんのか。思ってんのか!? ええ!?」
むわっとビール臭い呼気。なにも言えずにいると、歌舞伎役者が見得を切るみたいに、くっ、と顎を持ち上げて、くるりと踵を返す。
「クソタレ。あの学校、文句言ってやる。」
「あっ……や、やめて、お父さん!」
叫んでお母さんが、お父さんの腕を捕まえる。お父さんはそれを、乱暴に振り払う。
「なにがだ! おまえ子供イジメられて黙ってろって言うのか。続けてればプロになれたかもしれないものを、学校のせいで潰されて、そんなんで泣き寝入りしろって言うのか。それでも母親か!?」
「でも……学校だけはやめて。学校に文句言うのだけは! せっかく授業料のことまでちゃんとして貰えたのに、こんな」
「授業料? そんなもん払えるか、あっちが入学してくれって頭下げてきたから入れさしてやったのを」
「だから、払わなくていいんです! それはもう、ちゃんとなってるから!」
紗鳥が意味を汲み取れたのは、せいぜいがこんなところ。本当は二人とも、お互いのセリフを最後まで聞かずに自分の言いたいことを喋り始めるから、わあわあと重なり合って、単なる雑音でしかないところがたくさんある。おまけに「それはあれだろうが、ええ、おまえがああだからだろうが」なんていう意味不明のセリフが、これの30倍くらい混じりこんでいる。
この人たちの会話って、こんな薄っぺらだったのか……。
大人たちの喋ることが、うまく聞き取れないのは、紗鳥が子供だからだ、とずっと思いこんでいた。世の中が複雑で、大人の言葉が難しいから、わからないんだと思っていた。
でも、どうしてだろう。今日は全てが、クリアに聞き取れる。
そしてわかる。紗鳥にだけ、意味がわからなかったのではない。この人たちのお喋りの中に『意味』なんてものが、そもそもそんなになかったのだ……。
「手、放していいよ。お母さん。」
下腹に力を入れて、紗鳥は言葉を発する。
腹式呼吸。あめんぼあかいなあいうえお。声が、体の中心から出るように。
「……お父さんが文句を言いたいなら、行ってくれたらいいと思う。ちなみに、今回いろいろ手続きをしてくれたのは、柳場良子先生っていう人です。事務室に行って、生徒課の柳場先生と面談したいって言えば、会えると思います。」
迷惑をかけるかもしれない。でも、あの先生が、このお父さんなんかで怯むとは思えない。
「でも、さっちゃん。そんなことしたら、ますますさっちゃんが学校で辛い目に」
「そんな学校じゃない。あたしは平気よ。だから、お父さんが行きたいならぜひ行って。あたしのために話してきてくれるって言うんだもの、ありがたくお願いします。」
優雅に一礼する。頭の中で、紗鳥は今、あの滝先輩の衣装を着ている。戦闘的な少女の自己イメージ。
お父さんは困っている。顔はまだ、偉そうに怒って見せているけれど、心の中では慌てふためいている。もう一歩で、この勝負、あたしの勝ちだ。
……そう思った瞬間、
「でも、やっぱりダメだと。学校には学校の考えもあるし……」
と言って、お母さんがお父さんの背中を、そっと押し出した。
「それに、もう遅いから……お父さん、ビールも飲んじゃってるし、運転……」
「ええい、クソ、腹立つ!」
ぶんと手を振り回して、お父さんはまたどかどかっと、足音高く階段を下りていく。
「……ごめんね、さっちゃん。今、ごはん持ってくるからね。」
と言って、お母さんも部屋を出ようとする。
「……お母さん。」
ひんやりした声で、紗鳥は呼びとめる。
「なあに?」
「お父さんとお母さん、いい夫婦だね……」
お母さんは、単に首を傾げて、困惑した薄笑いを浮かべただけだった。どうやら、伝わらなかったらしい。
ぱたんと静かに閉じられたドアを見つめて、紗鳥は考える。
「持ちつ持たれつだね」ぐらいまで言った方が、解りやすかったのかな? あるいは「結局、グルなんだね」とか……
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