2
羽化場
お金の問題は、思ったより、ずっと早く決着がついた。
「そういう相談は、関係者かどうか、より、純粋にいい教師かどうか、で選んで持ちかけたほうがいいわよ。」
という滝先輩の忠告と紹介があり、紗鳥はバレーボール部の退部問題を、監督でも、顧問でもない、柳場良子先生という古文の先生に相談した。滝先輩とぴりか先輩の、去年の担任だった人だ。
事情を話すと、柳場先生は、すぐに手を打ってくれた。バレー部の新しい監督に話を通し、学園の事務局に掛けあって、授業料が当初の約束通り、3年間減免されるように、取り計らってくれた。
「……なんで、なんの関係もないのに、ここまでしてくれるんですか?」
と、半ば独り言のように、不審そうに呟いた紗鳥に、
「あら、関係ないことはないわ。あなたは桃李の生徒で、わたしは教師だもの。」
と、優しい笑顔で即答してくれる。
「それに……バレーボール部のことは、まんざら私にとって、無関係でもないの。あなたには、申し訳ないことをしたと思ってるわ。」
「どうしてですか?」
尋ねると、苦し気に眉をひそめて、ゆっくりと答える。
「詳しいことは言えないけれど、前の監督を辞めさせたのは、私……と、もうひとり、なの。新入部員さんたちのことを考えると、いいタイミングだとは、とても思えなかったけど、どうしても、長くは放置しておけない理由があって……。」
それは、あのセクハラ疑惑のことだろうかと、紗鳥は勘ぐる。
ハブられて、ろくに話の輪に加えてもらえなかった紗鳥の耳にさえ、いろいろと、ひどい噂は伝わってきていた。妊娠させられたとか、リスカしたとか、卒業後、進学もしないで田舎へ帰って、そこで首を吊ったとか。
「内田さん。最後に、もう一度だけ、確認してもいいかしら?」
と、柳場先生が紗鳥の目を、まっすぐに見て尋ねる。
「本当にバレーボールを辞めて、悔いはない? 今はもう、部内も落ち着いているという話だったし、カウンセラーを入れて、話し合いをさせながら練習に加わっていけば、大丈夫かも知れないわ。もともとあなたは、将来を期待された選手だったんでしょう?」
「…………。」
そんなことを確認されても、悔いが残るか残らないか、紗鳥自身にもわからない。
だが、ひとつだけ確信して言えるのは、その「今は落ち着いている」という部内の状態が、紗鳥が辞めたからこそ、得られているのだということ。
今、残っている部員たちが、ゴタゴタの理由を全て紗鳥に被せて、流して、祓い清めたからこそ落ち着いている、ということだ。
そこへ、当の紗鳥が、舞い戻るわけにはいかない。部のためではなく、紗鳥の……芽生えはじめたばかりの、ささやかなプライド、みたいなもののためにも、そんなわけにはいかない気がした。
「……いいです。」
と、紗鳥は小さく呟く。
「バレーボール……好きでした、けど。でも、もういいです。きっぱり、辞めます。もしかしたら、後悔……するかもしれないけど、でも……後悔しても、それでも、自分で選んだんだからって。もう引き返せないんだからって。言えるように……多分……」
じわっと涙が出る。なんだこりゃ、全然『きっぱり』してないじゃないの。
情けないやらおかしいやらで、なんだか泣き笑いのようになってしまった紗鳥の背中をぽんぽんと叩いて、柳場先生は言った。
「そうね。多分、大丈夫ね。それに……演劇部、きっと楽しいと思うわ。」
楽しい。……って、いいことだったっけ。悲しいせいで、うまく回らなくなってしまった頭で、紗鳥は一瞬、そんなことを悩む。
「カウンセラーの先生が言ってたことだけど……子供が大人になる時って、どうしても、同年代の仲間同士で固まってる時代が必要なんですって。ちょうちょの幼虫は、羽化する前に、蛹の中で、一度ぐちゅぐちゅに融けるでしょう? 人間の場合は、心の中であれと同じようなことが起こるんだけど、それが、ひとりぼっちだと、どうもうまくいかないんですって……。」
ぐちゅぐちゅに融ける。
そのイメージがちょっとグロくて、紗鳥の頭はますます、混乱を深める。
「あそこは、ずいぶん、おかしな場所だと言ってたわ。まるでずうっと昔から、そういう目的のために、誰かの手で準備されていたみたいだ、って……。ヘタに僕がかまうより、あそこへ放り込んでおいた方が、よっぽどマシだと思いますよ~、なーんて。職務放棄よねえ。どれだけ無責任なのかしら、あの人は……」
半分、独り言みたいに呟いて、くすくす笑う。
なんのことだか、よくわからなかったけれど……聞いていると、紗鳥はなんとなく、あの日、自分が桃園会館へ飛びこんだのが、単なる偶然じゃないような気がしてきた。
今、柳場先生が話した『ずうっと昔』が、いつのことかさえちんぷんかんぷんなのに、その時からずーっと、決まっていたことのような気が、した。
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