第十三話 内田紗鳥、青春の内側から出自を観照する縁 1
異邦人
夏だ!
キュウリだ!
ドロボーの季節だ!!
「待てー! 演劇部長ーっ!」
中庭に、園芸部長、天野晴一郎先輩の声が、今日も陰鬱に響き渡る。
大道具置き場の開け放った窓から、新入部員の1年生、内田紗鳥はひょいと首を突き出し、下を眺める。
梅雨の晴れ間の、眩しい日差しを浴びた植物が、むんと青臭い空気を立ち上らせている。キュウリ、ナス、トマト、オクラ、トウモロコシ。背の高い作物の畝が、縦横に並んでいるのを見下ろすと、まるで、巨大な緑色の迷路のようだ。
その迷路の中を、いっぴきの、真っ赤ならんちゅうが、ひらひらと泳ぎ回っている。
頭の両側から、ぽこんと突き出した、うつろな魚のまなこ。重なり合って、ひらひらと後ろにたなびく、薄い尾ひれ。演劇部長、畠山ぴりか先輩の、最新のお気に入りぬいぐるみ帽子。
その帽子の下が、青一色の全身タイツ……というのはつまり、水を表現しているのだろうか。緑一色の畑に盗み食いに行くのに、なぜあんな目立つ格好に着替えてから行くのか。相変わらず、あの人のすることは、さっぱり理解できない。
「待て、と言っているのが聞こえないのか。それとも、聞こえても、人語を解さぬのか! 獣め!」
なにかもう、言っても無駄だと言うことが98%以上わかっているような、どこか哀愁を帯びた声で叫びながら、天野先輩はらんちゅうを追い回す。
「なぜだ! なぜ、盗む! なぜ、僕の育てた食物を、僕を介さず食べるのだ!」
らんちゅうは応えない。魚に口なし、ということだろうか。いや、コスチューム如何に拘らず、ぴりか先輩は普段から、天野先輩に対しては、あまり口をきかない。せいぜい、とっ捕まった時に悲鳴を上げて、見苦しい言い逃れをするくらい。
それに今は、畝の間に潜みながら、真っ赤に熟れたミニトマトを、ひょいぱく、ひょいぱく、ひょいぱく、と、口いっぱい頬張るのに忙しい様子。あれでは、たとえ喋りたくとも、口が開くまい。
「なぁんか、なー……」
思わず、ぽつりと口に出した紗鳥に、同じく演劇部の1年生であり、紗鳥のクラスメイトでもある八雲業平くんが、
「どうかしたー?」
と、問いかけてくれる。
いかにも気だるそうな言い方だが、実は彼は、気配りの人だ。こうやってちょっかいを出すフリで、新入りの紗鳥が心細い思いをしなくていいように、なにかとフォローしてくれているらしいということが、最近ようやくわかってきた。
「……あれって本当に、心の底から怯えてるように見えるの、ぴりか先輩。なんかこう、逃げながら、真剣に瞳孔が開いちゃってて……」
「ああ。」
「そんなに怖いのに、なんでわざわざ、追いかけられるようなことするんだろう?」
「まーあのヒト、パンクだしなー。」
パンク、という言葉がどういう人間を言い表しているのか、今イチよくわからない紗鳥は、納得できたような、できなかったような、あいまいな気分で、観察を再開する。
と、
「むぎゃーっ!!」
というけたたましい叫び声が上がって、古い窓ガラスが、びりびりと振動する。
「ごめんちゃああい! もうしません! 放して園芸部長、もう、しません!」
「嘘だ。」
と、天野先輩は即座に言い捨てる。そうだろうなあ、あたしだってそう思うもん、と、声に出さずに紗鳥は思う。
ぐねぐね暴れるぴりか先輩を、小脇にがっちりと抱えこんで、天野先輩は、木戸口から菜園を出る。そして、生け垣を回って、建物の中へ入ってくる。
もしや、ここへ放りこんで、
「見張っておけ、絶対に出すな。」
とかいう話だったらどうしよう、と考えて、紗鳥は途方に暮れる。ぴりか先輩が言うことを聞くただひとりの人間、福岡滝先輩が出払っている今、あたしにそんなことを言われても、絶対不可能だ。でも、天野先輩、怖いし……
とか、ぐたぐた思い悩んでいたら、ドアの外から、
「こら、天野! なにやってんだおまえ!」
という怒鳴り声が聞こえてきた。
「おおー、なんか楽し気になってきたぞー?」
と言って、八雲くんがいそいそと立ちあがる。
連れだって廊下へ出てみると、歴史研究会の2年生、高杢海斗先輩が、腰に手を当てて、精一杯胸を反らして、天野先輩の前に立ちふさがっていた。
「何度言わせるんだよ天野。そんなにがっちり挟んだら、ぴりかちゃん潰れちゃうだろう! 痛いことはするなと、あれほど言っておいたじゃないか!」
「これ以上力を弱めれば、確実に抜け出す。僕はこれでも、手加減している。」
「どこがだよ! 仮にも同い年の女の子を運ぶのに、その持ち方はないだろう! 死体とかマグロじゃないんだぞ!」
「そんなことは知っている。死体やマグロは、野菜を食べはしない。」
どこかとんちんかんな受け答えをしながら、しかし天野先輩は、見るからに困惑して、たじたじとなっている。
これもまた、新入りの紗鳥には、よくわからない構図なのであった。高杢先輩は、この建物の面子の中では、ちょっと癒し系というのだろうか、いつでも照れの混じった、もごもごとした喋り方をする、おっとりした人だ。それほどアクが強くない、というか、よくも悪くも平凡なので、とてもじゃないけど、天野先輩と一対一でやり合って、勝てるキャラには見受けられない。
にも拘らず、彼はなぜか、天野先輩にやたら強い。
そして、ぴりか先輩に甘い。
だからぴりか先輩は、天野先輩に追いかけられるたびに、高杢先輩の背中に逃げこんだりしている。例えるなら、天野先輩がグーで、ぴりか先輩がチョキのジャンケンに、パーの高杢先輩を交ぜてしまえばあいこになって逃げ切れる、ということを学習しているわけである。一応、自分の部の部長であるから、体育会系思考の紗鳥は、あまりこういうことをはっきり言いたくないのだが……卑劣である。とても、卑劣だ。
「わかってるなら改めろよ。何度も言うけど、ぴりかちゃんは・人間の・女の子・なの。ドロボーのことで説教するなら、それはそれで仕方がないけど、部室まで連行するときの運びかたで、すでに体罰になってたらしょうがないだろう。」
「ではどう持てばよいのだ。こうか?」
と、真剣な表情で問い返しながら、天野先輩は、脇に挟んであったぴりか先輩をひょいと振り上げて、天秤棒のように肩に担ぐ。えびぞりになったぴりか先輩が、
「ぐえ。」
と、潰れた声で呻く。
「あるいは、こうか?」
と、そのまま190センチの高さから逆さ落としにかけて、頭が床にぶつかる寸前で、両足首を掴まえる。
「ふわ!!」
「もしくは、獣らしく、この辺りを持つなどが正しいのだろうか。」
らんちゅうのぬいぐるみ帽の、襟首を掴んでぶら下げる。
「く……くる、ひ……」
「こらこらこら、下ろせ、やめろ、死んじゃうよ!」
「あーらら。またやってるのぉ、この3人さん。」
歴研の部室から出てきた沢渡美優先輩が、愉快そうに言ってころころと笑う。
「うわー、ぴーちゃん大丈夫? 天野、もうちょっと手加減してやれよー。」
思想研究会からも、会長の山田優哉先輩が出てきて、やんやとはやし立てる。
回廊のむこう端で、古い椅子に腰掛けていた、ウクレレ部長の大村鈴先輩が、
「なんだか、こんな感じの情景ですぅ。」
と笑いながら、コミカルなBGMを演奏し始める。
ここに入って、そろそろ1ヶ月。……まだどこか、夢から覚め切っていないような、頭に薄い膜が1枚張りついたような精神状態で、紗鳥は、
「……慣れない。」
と、ぼそりと呟く。
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