第十二話 遠野史惟、生身で箱庭に囚われる縁 1
カウンセリングルーム
「ないよ。」
と、カウンセラーの先生は、あっさり言い捨てた。
「そんな都合のいい薬はねー。まあ、脳科学の進歩のスピードから言って、もう1、2世紀もすれば、出ないとも限らないとは思うけど。ともかく、今んとこはまだ、開発されてないねー。」
そう聞いて、遠野史惟は、皮肉な笑いを浮かべる。目を伏せて、眉をしかめ、口元の左側だけをきゅうと吊り上げる、醜い微笑み。
以前には、そんな笑い方は、決してしなかった。小さい頃は、史惟がにっこりと笑うたびに、
「まあ、この子の笑顔は、本当にかわいいわねえ。」
と、まわりじゅうの大人たちが、相好を崩して喜んでくれた。幼稚舎から中等部まで、いつだってクラスメイトたちの、楽しい笑いの渦の真ん中にいた。
高等部に進学する直前の春、信じられないような挫折を、味わわされるまでは。
「でさあ、君、相談はなんなの?」
と言いながら、その軽薄そうなスクールカウンセラー、湯浅英彦先生は、後ろ向きに跨がっていたオフィスチェアを、くるくると激しく回転させる。
「まさか、そんなことだけ聞きにきたわけじゃないんでしょ? 感情や身体反応が、理性の下した合理的な判断に、即座に対応するような向精神薬が開発されてるかどうか、なんてさ。」
「いや、別に……。本当にそれだけ、ちょっと知りたかったんです。」
顔をあげ、さわやかに微笑みながら、史惟は断言する。
悩みなど、ない。『悩んでいる』と言うのはつまり、どうすればいいのかわからない状態にいること。自分で、自分の進むべき道が、決められないでいるということだ。そんなことは、決断力のない人間のやることだ。
どうするべきか、俺にはもう、ハッキリとわかっている。あれは、過ちだった。あいつはもともと、俺に相応しいような、まじめな女の子じゃなかったのだ。
その証拠に今では、学校でも最底辺をさまよっているような、頭のおかしな連中とばかりつるんで、周囲の顰蹙を買っている。
あれは、過ちだった(そして、過ちを犯したということを、まっすぐに認める度量だって、俺にはある)。だから一刻も早く、気分を切り替えるべきだ。良い勉強をしたと思って、次へ繋げるべきなのだ。
……そこまでは、はっきりとわかっている。
しかし、体がついてこない。未だに気分が晴れないし、気がつくと、あの浮かれた日々のことを思い出している。しばしば……非常にしばしば、不愉快な夢を見る。
これはもう、仕方がないことなんだろう。人間は、半分、動物なのだから。たとえ俺のような、遺伝的に優秀な個体であったとしても、生きている限り、そこから完璧に逃れることなど、できはしないのだ。
だが、今は医学がもう、こんなに進歩している。
特に、脳科学や、神経生理学と言った分野の発達は目覚ましく、専門外である自分には、もう最新の論文を読んでもなにがなにやらわからないと、医者である父さんが言っていたくらいだ。うつを治す薬、統合失調症に効果のある薬、果ては記憶中枢に作用して、記憶を選択消去する薬まで開発されているという。
だったら……と、史惟は思いついたのだ。
頭ではっきり、これが正しいとわかり切っていることに、心とか感情とかいった下位の部分がついてこない時に、諦めをつけさせる神経伝達物質はまだ、特定されていないのだろうか……と。
「湯浅先生は、心理学だけじゃなくて、脳神経のほうもやられたんでしょ? というか、もともとそういう学部だったって、広報の自己紹介欄に書いてあったけど。」
そう言って、史惟は気楽そうに手足を伸ばし、好奇心に満ちあふれた表情で、湯浅先生の顔をまっすぐ見据える。
「俺もちょっと、そういう分野に興味があって……養老孟司さんとか、茂木健一郎さんみたいな活躍すんの、おもしろそうだなーって。すごい憧れてて。ただ、家の病院継がなきゃいけないし、どうしても内科とか、臨床の方に行くことになると思うんですよね。進路は桃李大の医学部で、ほぼ決まりなんですけど、なに学科にしようかなーって、それだけちょっと、迷ってて……。まあ、まだだいぶ先の話ですけど……」
「ああ、なるほどねー。そういう話かー。」
と言って湯浅先生は、椅子の回転をぴたりと止める。履いているバスケットシューズの底が、摩擦でキュッと音をたてる。
「確かに今、医学で元気なのって、脳神経か遺伝子だよねー。桃李にも、専門にしてる講師はいるよ。ただ、もし研究職につきたいんだったら、僕は桃李より、那賀医大の方を勧めるかなあ。入る時の偏差値は下だけど、入ったあとの授業は濃いーよ。あそこ今、おもしろい先生、たっくさんいるからねー。」
「へえ、そうなんすか。」
「ご両親が、内科へ行けって、強制してくるの?」
「いや、そんなことはないです。内心、継いで欲しいと思ってはいるでしょうけど。うちはそんな、子供の進路に口出ししてくるような、横暴な親じゃないですし。」
「ふぅん。いいご家族なんだ。」
「ええ、まあ。その辺は、恵まれてますね。」
「そうか。それはなによりだね。ホントにねー、医学部行くと、いーっぱいいるからね。そういう、開業医の家に生まれて、生まれた時から医者へのレールががちーっと敷かれちゃってて、他の選択肢なんかそもそもなかった、っていう、今時ナニソレ? って設定背負った奴。あはははは……」
「そうなんだ、まだ、いるんだ。あはははは……」
なんの話をしてるんだ、俺は。
明るく楽しく一緒に笑いながら、史惟は意識の底の方で、堪え難いほどの空しさが、しんと光っているのを感じる。
まるで、胸の奥に、ブラックホールにつながる、針先ほどの穴でも開いてしまったようだ。これ以上ここにいると、目の前のこのへらへらしたカウンセラーに、殺意さえ抱いてしまいかねない。さっさと話を切り上げて、立ち去らなくては。
「なら、あとの問題は、遠野くんの意思決定だけ、と言うことになるね。」
と、言いながら、湯浅先生はカルテ(というのだろうか、心理系も)を取り出して、ちょこちょこと字を書き込む。作らなくていいよ、そんなもの、と、声に出さずに史惟は思う。どうせ俺はもう、二度とここへは来ないんだから。
「そうっすね。俺がそうしたいと決めさえすれば、なんの障害もないわけだし。なんか、すいませんね。こんなたいしたことないことで、わざわざ面談してもらって……」
「いやー、ぜんぜん。こういうのも、立派なカウンセリングだよ。それに、その『意思決定』ってやつが、思いのほか、一筋縄では行かないからねー。」
すでに立ち上がりかけていた史惟は、その言葉に、奇妙なひっかかりを覚えて、動きを止める。
「ありとあらゆるデータをぶちこんで、全く矛盾のない合理的な答えを、一瞬のうちに導き出したとしても、人間ってのは、なかなかそれに従えない。ようやく納得して、重い腰を上げてみると、データなんかなーんにも持ってなかった人間が、体当たりで選んだのと同じ道を、同じタイミングで歩き始めていたりする。……その決定を司る神経伝達物質は存在するか? コントロールは可能か? おもしろいよねえ。」
「……そうすね。やっぱ、興味ありますよね。」
笑いが引きつる。なにか、すごく汚い水を、顔にぴしゃりとはね飛ばされたような気分。
「ところで、2週間後のこの時間、空けておくから。」
「はい?」
意味がわからず、ぽかんと問い返す。湯浅先生は、それをまったく意に介さない様子で、自分のスケジュール帳を広げて、史惟の名前を書き込みだす。
「えーと。2週間おき、ということにすると、かえって混乱するかなー。じゃあ、毎月第1月曜日と、第3月曜日のこの時間帯が、遠野くんの時間ということで」
「ちょっ、ちょっと、待ってよ先生。」
慌てて、ノートの上に手をついて、書く手を妨害する。
「そんな、俺……必要ないですよ。たとえ本当に、そういう進路で悩んでいるとしても、まだ2年生になったばっかだし、考える時間はあるし……」
「いやまあ、来たくなかったら来たくないで、別に、いいんだけどね。」
なにをそんなに、必死になって防いでいるんだい? とでも言いたげな、訝しそうな顔で、湯浅先生が史惟を見上げる。
「まあ、規則だからさー。予定だけ、一応書き込ませてよ。来たくなかったら、すっぽかしていいよ。そしたら僕、その時間、本とか読めるし。」
「はあ……」
しぶしぶ、手をどかす。予定表の上に、史惟の学年と、クラスと、名前が、丁寧に書き入れられる。
じっと見ていると……なにか、膀胱が少し、縮むような感覚をおぼえた。
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