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祝祭の気配
頭の傷と腰痛と、全身の痛みが治るまでに、ひと月以上を要した。
身辺整理のために、久しぶりに出勤してきた理事長室で、通風のための小さな窓を開け放つ。すると、高等部の方角から、風に乗って、なにやら賑やかな喧噪が流れてくる。
それにぼんやりと耳を傾けていると、意識の外側からこつこつと、威勢の良いノックの音が響いてきて、懐かしい人物が顔を出した。
「ははあ。敵はついに、スパイを送り込んできましたか。」
冗談めかしてそう言うと、菊川みな子先生は、おもしろくもなんともありません! という、険しい顔で切り返してくる。
「妄想が始まっていますね。入院して、検査を受けていただかなくては。」
「入院は勘弁してもらいたいですね。別の科を退院したばかりですし。」
笑いながら、応接用のソファーに移動する。菊川先生は、惣一郎の顔を注意深く観察しながら、向かい側に腰を下ろした。
「理事長、お辞めになられるんですって?」
「ええまあ。今度のことで、別に自分がいなくても、学園の仕事にはなんの障りもない、ということが、内外にばれてしまいましたからねえ。」
実際、休んでいる間に、誰かが自分の意見を聞きに病室まで相談に来る、などということは、一度たりともなかった。すべて、登志雄がうまくやってくれている。
「そんな飾り物の爺が、このご時勢に8桁も年俸を貰っていては、バチのひとつも当たって当然というものです。今回はたんこぶで済んだが、次は多分、命がない。僕もそろそろ、閻魔様に会う時のことを考えなくちゃいけませんから。」
「……学長が、頭を痛めておいででしたよ。」
やはり、登志雄に頼まれておいでになったんだな、と惣一郎は思う。あの日以来、ぼんやりと物思いに耽る時間が増えたせいで、息子夫婦に相当な心配をかけてしまっていることは、よく心得ている。
「理事会の面々が、次々に年俸の減額を申し出てます。ここで自分だけ言い出さないと、後々どうなるかわからないという、戦々恐々とした雰囲気が生まれておりますよ。」
「別に、そんなことを意図して辞任したわけでは……」
「結果的にはしっかりそうなってます! おかげさまで、奨学金の枠は増やすことができたそうですが、学長があれだけできた人物でなければ、理事会が空中分裂してもおかしくなかったんですから!」
「……面目ない。」
素直に謝る。10歳ほども年下の女性だが、お互いにここまで年だと、そういうことはあまり関係がなくなる。「60歳以上は『たくさん歳』、70過ぎれば等しく妖怪」というのが、菊川さんの持論である。妖怪同士の関係でものを言うのは、純粋な力量だけだ。
「だが、辞める気になったのは、本当にそれとは、全く違った理由からなんですよ。正確にお伝えするのは難しいが、自分の人生が、いよいよラストスパートに差しかかったのがわかったとでも言うか……扉をくぐる準備を、始めたいと思いまして……」
「扉、ですか。なるほどねえ。」
ため息を吐きながら、細いメンソールの煙草を取り出して、火をつける。その顔を見ると、どうやら、重度の認知症の疑いは晴れたらしい。
「……で、具体的には、なにをなさるんです?」
ふうっと白い煙を吹き上げて、菊川さんが尋ねる。
「しばらくは挨拶回りなどもありますが、それが済んだら、溜め込んだ絵本と児童書のコレクションを、なんとかしようと思います。あれだけ買い集めておいて、まだ手をつけていないのが山ほどあるんですから。もしあれを読み切る前に、また頭でも打ってぽっくり逝ったりしたら、それこそ死んでも死に切れない。登志雄も、わしが夜な夜な書斎に現れるのは、きっといやでしょうから。」
手を幽霊形に突き出して、怪談めいた声でそういうと、菊川さんはしかめていた顔を、やれやれという感じに綻ばせて、一緒に笑って下さる。
「最後の最後まで、ワンマンを通されましたねえ……。」
煙草をぎゅっともみ消してから、膝を揃えて、真面目な顔になる。
「長らく、お疲れさまでございました……。」
「いや……ありがとう。」
恐縮して、礼を返す。顔をあげて、静かに笑い合っていると、窓の外からの喧噪に、高らかなラッパの音や、けたたましい軽音楽が混じり始めた。
「なんだろう。今日はまたずいぶん、賑やかですね……」
首を傾げていると、菊川さんが立ち上がり、窓辺へ歩いていって顔を出す。
「ああ……あの例の、高等部の部活勧誘会のようですわね。」
「ははあ、あれですか。どうも毎年、激しくなりますなあ。」
腰を摩りつつ、惣一郎も窓辺に向かう。音楽の合間合間に、大勢の少年少女たちが、どっと一斉に笑う声。
「……よく、あれだけ笑えるものだ……」
そう呟いてみると、なぜだか急に、体中がうずうずしだす。幼い頃、遠くから神社の祭り囃子が聞こえてきた時のような、いても立ってもいられない気持ち。
「……ちょっと、行ってみます?」
菊川さんも、同じ気持ちになっていたらしい。若返ったような顔をして、そんなことを言い出す。
無論、惣一郎にも、異存はない。
中等部の生徒や、大学の学生、それに教員たちも大勢見物に来ているようで、背広姿の人間が、けっこうたくさん歩いている。おかげで、白髪頭の妖怪二人連れが、たちまちのうちに人目を引くということもなく、惣一郎はほっとひと安心した。
「あら、ちょうどいいのがいましたわ。」
と言って、菊川さんが、少し前を歩いていた青年に声をかける。
「湯浅君、ちょっといらっしゃい。……いいからちょっといらっしゃい!」
呼び止められた青年は、振り返って菊川さんの顔を見るや、びくっと逃げ腰になって後ずさりをしかけたが、来い来いと手招きをされて、観念した様子で近づいてきた。
「へ。師匠。これはまたどういうご用で。」
菊川さんを師匠と呼ぶ、ということは、高等部のスクールカウンセラーだろう。一見、まだ学生のような幼い印象だが、菊川さんが抜擢したのなら、人物に間違いはあるまい。
「別にあなたを叱りにきたわけではありません。私と理事長と、お祭り見物にきたから、案内してちょうだいな。」
「りじ……」
一瞬、絶句してから、ひょっこりと腰を折り曲げて、手をすりあわせる。
「ええと。なにをご案内いたしましょう。」
「おもしろいものです。見る価値のある、愉快なもの。」
確固たる口調で、菊川さんは言う。
それで湯浅という青年は、ちょっとばかり首を折り曲げ、しばらく考えこんでから、
「……では、こちらへどうぞ。」
と言って、先に立って、ゆっくりと歩き出す。
「……なんだか、賑やかなところから遠ざかってない?」
と、菊川さんが不審な声で尋ねる。
「もう、ここから先には、ほとんど誰もいないじゃないの。」
「まあまあ、お静かに。」
と、青年が言って、唇に指を立てる。
「うるさければ、それだけおもしろいと言うわけじゃございません。よろしければ、お二方には、舞台裏から覗いていただこうと思いまして。」
「舞台裏?」
「ここから先、音をたてないでいただけますか?」
と言って、青年は中庭のはずれから、ニセアカシアの林の中へ踏み込んでいく。菊川さんが眉をひそめて、どうします? と、目で尋ねてくる。
惣一郎は小さく頷き、青年の後に続く。
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