6
霧が晴れる
「なんの用だ、きゅうり……僕は探し物の途中なのだ。すまんが、邪魔をしないでくれ。」
誰か、男の……いや、低く、落ち着いた話し方ではあるが、まだ若い、少年の声。
聞いた途端、少女がびくりと身を起こす。恐怖に凍りついたような表情。瞳孔の開いた目で、声のした方角を凝視する。
釣られて、惣一郎も身を起こす。……ニセアカシアの若木の陰に、やたら背の高い、ひょろりとした少年の姿が現れる。
背中に背負った籠の中に、シャベルや、鍬や、鎌などの農作業道具が差し込まれている。手に持った長い枝で、足元の地面を突いたり、方位磁針らしき小さな円盤を覗き込んだりしながら、惣一郎たちから少し離れた場所を、ゆっくりと通り過ぎようとする。
「ゲタゲタゲタゲタゲタ!」
突然、梢のカササギが、品のない大笑いのような鳴き声を上げた。
それで少年は、こちらを振り向く。惣一郎と少女を見つけて、特に驚いた様子もなく、冷ややかに眉をひそめる。
「……こんなところでなにをしている。」
見下したような物言い。それで惣一郎は、一瞬ムッとする。人の逢瀬を邪魔しておいて、いったい、おまえは誰なんだ。
だが、それは本当に、ほんの一瞬しか続かなかった。
少年が着ているのは、高等部指定の、長袖の体育服。胸のところに、木とペンとを象った校章が、紺色の糸で刺繍されている。この子もやはり、桃李の生徒であるらしい……それを意識した途端、ずっと曖昧だった自意識が、急速に鮮明になる。
今は平成の世で……すでに戦時中ではない。そして自分も、最早、10代や20代の青年ではない。
その証拠に、目の前のこの少年と、自分との差異はなんだろう。
まるで別種の生き物だ。少年の、顔や首筋の瑞々しい肌や、若木のようにしなやかな体を眺めるにつけ、己がすでに、人生の終局に差し掛かった人間であることを、いやと言う程思い知らされる。そうだ、あれからもう、長い年月が過ぎた。僕の青春は、遠い昔に終わっている。今はもう、80の坂を越した老人なのだ……
「あっ……そのぅ、わしは……」
咄嗟に、そんな物言いが出る。家族のものや、若い教員たちと話す時に、たびたび使う、おどけた口調。
「……どうしたんだっけな? 大学から、ちょっと用があって、あるところへ行こうとして……林の中で、なにやら、道に迷って……」
傍らの少女が、ぽかん、と口を開けて、惣一郎を見つめる。
その間に、少年は気難しい顔で、こちらへ向かって、ずかずかと歩いてくる。
すぐ側まで来て、惣一郎の顔を、真上からじっと見下ろす。そして、ゆっくりと、手を伸ばしてくる。
大きな手のひら。視界が遮られる。なにをするつもりだ……。
「やめ……だめーっ!」
怯えた叫びをあげて、少女が惣一郎の体に縋りつく。
「……血が出ていますよ。」
「へっ?」
間の抜けた声で、惣一郎は聞き返す。
少年が自分の指先を、惣一郎の鼻先に突き出してくる。そこに、確かに、鮮血がついている。
「ちょっと失礼します。」
「えっ。あ。ええと。」
あたふたしていると、少年は惣一郎の体の後ろにしゃがみ込み、なにやら、後頭部をいじり始める。もう相当薄くなった白髪が、ごそごそと掻き分けられている感触。
「……棘が刺さったままになっている。」
「え。」
聞き返すなり、なにか、チクッとした痛みが走った。
「いたたたたた。いた。いたた。」
「演劇部長。桃園会館に戻って、救急箱を取ってこい。沢渡先輩が管理しているはずだ。」
首にかけていたタオルを外し、惣一郎の後頭部の一点にギュッと押しつけながら、少年が低い声で言う。
「……なにをしている。急げ。」
いらついた、横暴な口調。男尊女卑の時代に育った惣一郎が聞いても、かなり威圧的な感じ。まるで、犬か猫でも躾ているかのよう。
案の定、少女は動かない。座りこんだまま、目を吊り上げて、惣一郎の背後の少年を睨みつけている。
「……なら、いい。貴様はここで、」
「あっ。」
業を煮やして、少年が、惣一郎の服の襟にしがみついていた少女の腕を、乱暴に引きはがす。
「痛い! なにすんのっ!」
「ここを圧迫していろ。」
少女の手を、惣一郎の頭の上に押しつける。
「こうして、出血を抑えるのだ。動かしたり、様子を見るためにタオルを剥がしたり、余計なことは一切するな。」
それだけ指示して、少年は立ち上がり、背負っていた籠を地面に下ろす。
そして、再び薮を掻き分けて、もと来た方角へ歩き出す。
姿が見えなくなる直前、もう一度少女を振り返り、
「そこにいろ……すぐに戻る。」
と言いおいて、今度こそ、本当に消えた。
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