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なすびのドレスとランニング
まだ日の高いうちに見る桃園会館の印象は、昨日ほど不気味ではなかった。
八雲くんが、ライオンのドア・ノッカーのついた扉を開く。ぎぎぎーっとハデな音。敷居のところで紗鳥を振り返って、こいこいと手招きする。
「ひびんなくていいって。」
「だっ……て、あの……」
「いないいない。さっき追い抜いていったばっかでそんなヒマないって。」
「……え?」
意味が分からず、立ちすくんでいると、八雲くんはいらいらしてきたのか、
「いーから、は・い・れ!」
と言いながら、紗鳥の肩に手をかけて引きこむ。
どっきーん、だ。謡ちゃんや増田さんや恩田さんが見たら、また「いいなー!」とか言われてしまうんだろうな。でも、あの、なんて言うか、あたし別に八雲くんて、そんなにシュミでもないんですけど。て言うか自分、シュミとかそういうの、まだ決めてない、って言うか自分でもよくわかってない、って言うか。このどきどきは別に、だからこの人だからというわけでは全然なくて、自分、男子そのものに抗体がなくてですね。
などと、頭の中で、いったい誰に言い訳してるんだか。目の前にあの『個人面接』のシチュエーションが蘇ってきて、脇の下を、冷たい汗が流れ落ちる。
八雲くんは、紗鳥の肩に手をまわしたままで、階段を上り、突き当たりのドアへと向う。心臓ばくばくでヨロヨロしながら、紗鳥は、そのドアの脇の、奇妙な看板に目を止める。
黒く塗ったベニヤ板に、真っ赤なペンキで、いかにもおどろおどろしい字体で、
演 劇 部
「っはよーございあーす!! 昨日のヤツ、連れてきたっすー!!」
ばぁんとドアを開けて、八雲くんが能天気に叫ぶ。
半分、突き飛ばされるようにして入ったその部屋の内側は……
おかしな衣装と、着ぐるみだらけ、だった。
ブティックハンガーにずらりとつり下げられた、奇抜な色合いのドレスにワンピース、フード付きのマント、ぶかぶかのズボン。
棚には、誰がどういう状況で被るんだこんなもの、とつっこまないではいられないような、珍妙を極めたデザインの帽子が山積み。
壁のコート掛けからぶら下がっているのは、背中にチャックのついた犬、猫、豚に羊にオオカミ。白とピンクのウサギ。
焦げ茶色のクマ……まさしく昨日、紗鳥が見た、あの歩くクマ。
そして、怪物たち。どこかの国の民芸品みたいな木製の仮面もあれば、動物の着ぐるみと同じような素材で作られた、頭からすっぽり被るタイプのものもある。真っ白なゴースト、のっぺらぼう、一つ目の入道、首に針金が入っているらしいろくろ首、その他、わけのわからない化け物たちが勢揃い。
それらの一番はしっこに、昨日、紗鳥の頭上から降ってきた、あの「ももんがあ」の巨大な頭部が、命もなく、声もたてずに、ごろりと転がっている。
「こ……」
こんなものに……
びびらされたのか……
紗鳥はなんだか、無性に腹が立ってきた。
誰に怒ればいいんだろう。やっぱり、自分か?
「あー、来た来た。わぁお、イメージばっちり。」
部屋の奥から声がして、紗鳥はふり返る。
裁縫道具や布の山の真ん中で、一人の女の子が、まるで骨董品みたいな足踏みミシンの台からつと立ち上がって、こちらへ歩いてきた。
さっきのおかしな人じゃない。もっとずっと理知的で、まともな感じがする。さらりとした黒髪のおかっぱ頭。切れ長の目に、長い睫毛。動作がきびきびして、隙がない感じ。
「内田さん、だっけ? あたし、福岡滝。2年生。よろしくー。」
「あっ……どうも、はじめまして……」
なんだか知らないが、ともかく地獄で仏、のような心持ちがして、紗鳥はやっと、普段通りの口をきく。
「内田紗鳥です。1年5組……いちおう、バレー部に所属……」
「ちょっとこれ被ってみて。」
棚からひょいと、おかしな帽子のひとつを取り出して、紗鳥の頭にいきなり被せる。それから一歩下がって、じっと見つめる。
「……いまいち。こっちのほうがいいか。」
「あ、あのう?」
「じっとして。」
別の帽子を取り出して、次々と被せてくる。
「うんうん。いい感じ。なるほど。今度はこれ、ちょっと、着てみてくれる?」
「は?」
「そこに姿見があるから。」
なすびのような色をした服を一着、手に持たされ、カーテンで仕切られたフィッティングルームのような一角に押しこまれる。
だめだ。この人も、話が通じない。
「着方はわかるよね、上から被るだけだから。制服のスカートは脱いで。」
「……はい……」
もう、逆らう気も起きない。
ゴムが入って、ちょっとすぼめたような裾の穴を見つけて、夏服の上からすっぽりと被る。薄緑色の、おかしな形の襟を整えてみると、なんてこった、なすびのような、ではなく、これは本当になすびの着ぐるみなのだ。ナスドレス。
おそるおそるカーテンを開けて出てみると、予想した通り、八雲くんが大笑いする。
「ひゃはははは! 内田、長茄子! 長茄子!」
その笑いを異次元の彼方のように無視して、福岡さんという先輩は、真剣そのものの表情で、紗鳥のドレスを検分する。
「肩、きつくない?」
「……ちょうどいい、です。」
「もうちょっと、ミニの方がかわいいかな……明日までに詰めとくね。」
「は。」
「よぉーし、紗鳥ちゃん!!」
カーテンの後ろから、突然、ピエロが現れて、号令をかける。
「ランニングにしゅっぱーつ!!」
「はいっ!」
体育会系の悲しい性で、瞬時にいい返事を返してしまってから、なんで部活でもないのにランニングをしなきゃならないんだ、しかもなすびの格好で、ピエロの後について、と、次から次へと疑問を噴出させる。が。
ピエロ、速い!
階段を3段抜かしで駆け下りて、ライオンのドアから表へ飛び出し、白い花の林の中に駆けこんで、風のように木立を抜けていく。
「紗鳥ちゃぁーん。ついてきてるー?」
と、ピエロが、前を向いたまま叫ぶ。その耳障りな声の響きで、紗鳥はようやくこのピエロが、さっきのおかしな、背の小さな、小汚い女の子の扮装であることに気づく。
「はい。」
「ペースはやくなーい?」
「大丈夫です。」
「そしたら、歌、うたおーか。」
「はい?」
「走ったまま歌うの。テンポさえ合ってたら、なんでもいーよ。紗鳥ちゃんの好きなのでー。」
好きな歌?
すでに混乱しきった頭に、急にそんなシンプルな質問をされて、紗鳥はかえって、わからなくなる。
よく聞くポップスを、順繰りに思い浮かべる。中学のバレー部で、カラオケに行って歌った曲を、歌おうとしてみる。どれもなぜか、ぴんと来ない。
「いっこもないのー? すきなうたー。」
というピエロの声にせかされるように、紗鳥の口から出てきたのは。
東京ブギウギ リズムうきうき こころずきずきわくわく~
「キャー、しぶーいっ。」
ケタケタと、ピエロは笑い、すぐに紗鳥と一緒に歌い始める。
海を渡り 響くは 東京ブギウギ~
上手い。昔、聞かせてもらったおばあちゃんのカセットテープとそっくりだ。こんなに速いペースで走りながら歌っているのに、息がぜんぜん乱れない。おまけに、声がとんでもなくよく通る。
ブギの踊りは 世界の踊り 二人の夢のあの歌~
口笛吹こう 恋の ブギのメロディー~
一曲歌い終わる頃には、紗鳥はだんだん、息があがってきた。
ここ数日の運動不足もあるし、胃痛のせいもある。おかしななすびの服のせいでもあるし、林の中の、起伏の多い、細いくねくね踏み分け道が難しいせいでもある。
そんな風に言い訳してみても、やはり、どうにも悔しい。
なんでこんなに、衰えちゃってるの? なんでこんなに、苦しいの?
バレーボール。あたしの中学時代。あの全国大会。
勝ち進んで。その度に笑って、泣いて。チームメイト。汗と涙。根性、根性。
「紗鳥だけは、続けてね」と、泣きながら退部したユイコ。あんなに才能を期待されながら、膝を痛めてマネージャーに徹した、尊敬する大村先輩。
「絶対ワールドカップに行って下さい!」と言って送り出してくれた、かわいい後輩たち。今頃きっと、あのコートの上でがんばっているんだよね。内田先輩も桃李学園でがんばってるんだから、あたしたちもがんばろう、なんて、思っててくれたりして。
なのに、どうしてあたし、こんなところにいるの。
どうしてしがみついてでも、部活続けようって思えないの。
どうしてこんなところで、こんなバカみたいな服着て、バカみたいなちっちゃいピエロについて、能天気な歌うたいながら走って……しかも、しかも、
体力で負けちゃったりしてるわけ!?
「今度オイラが選ぶねー。紗鳥ちゃん、しんどかったら別に歌わなくてもいいからー。」
「平気ですっ。」
「ほほほ。行きますよー。♪きしゃきしゃ、しゅっぽしゅっぽ、しゅっぽしゅっぽ、しゅっぽっぽ♪」
「ぼーくらっをのっせってっ、しゅっぽっしゅっぽっしゅっぽっぽっ!」
もうやけくそで、腹の底から声を出して歌いながら、必死で食らいついていく。
辛いし、悲しいし、泣こうかな、と思ったけど、この状況と涙が、あまりにもそぐわないので、やめた。
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