第一話 内田紗鳥、桃園会館に足を踏み入れたる縁 1
ニセアカシアの林
「死んだ方が、いい。」
そう、声に出して呟いてみると、にわかに自分のつらさが現実のものになったような気がして、紗鳥はびっくりする。
では、そう呟く以前には、このつらさは、現実のものではなかったのだろうか?
そうは思えない。声に出す前と後で、自分の今の立場に、なにか変化が起こったわけではない。
誰に聞かれたわけでもない、こんな小さなひとりごと。こんな、誰もいない林の中で、ぽっちりと、小さく囁いただけの……
林の中?
いつのまに、こんなところへ迷いこんじゃったんだろう。学校の敷地内に、こんな林があったなんて、紗鳥は今の今まで、ぜんぜん知らなかった。
行かなければ、と思いながら、どうしても、部活に出られなかった。ならばせめて、休みます、と連絡だけは入れなければ、と思いながら、それすらもできなかった。
だったらもう、帰っちゃえば? と投げやりに思ったりもするのだが、うちに帰って、お母さんやおばあちゃんに、あら、今日は部活は? と聞かれるのが、怖い。
荷物を持って、帰り支度で校門まで歩き、まるで用事でも思い出した顔で、教室へ引き返し、また校門へ歩き、また教室へ帰り……
そうやって、時間をつぶしているうちに、同じ所を往復するのにも飽きてしまって、ちょっとずつ、道を外しているうちに、とうとうこんなところへ来てしまった。
辺りの空気にたちこめる、甘い香り。
はちみつのような、新茶のような。それはどうやら、風が吹くたび、頭上から雨のようにぽとぽと降り注ぐ、この白い花の香り。
地面の色が見えないほどに、それは降り積もっている。見上げると、柔らかな羽状の葉っぱの間から、その花が、ぶどうみたいな房になって、あっちにたらん、こっちにたらん、と垂れ下がっている。
きれいなところ。でも、首を吊るには、たよりなさそうな枝振りだ。それに、幹まで見事にトゲだらけ。登ったりしたら、制服がずたずたになりそう。
どうせ死ぬつもりなら、服が破れようが、手のひらをケガしようが、大した違いはないような気がするけど、死ぬって、ただでさえ痛くて苦しそうなんだから、その上血まで出したくはないなあ、などと、虫のいいことを思う。
だいたい、今、ひも持ってないじゃん!
そう自分でつっこんで、くすっ、と笑いかけた瞬間、遠くからホイッスルの音が響いてきて、また、胃袋がきゅうっと縮み上がる。
那賀市、桃李大学付属、桃李学園高等部。
偏差値でも、スポーツでも優秀な、県下1の有名私立大学付属の中高一貫校。小さな里山ひとつ、全部が学校の敷地で、まるでひとつの町。ひとつの独立した共和国。
紗鳥は、バレーボールの特待生として、高等部からの入学を果たした。15歳で、すでに身長は179センチ。中学時代はキャプテンで、エースアタッカー。
全国大会に出場して、新聞に写真やインタビューも載った。引退した夏休み明けにはもう、監督自ら家まで足を運んで、
「ぜひ、うちを受験してくれないか。」
と言ってくれた。
お母さんも、おばあちゃんも、有頂天になって喜んでいた。ウチの娘があんないい学校に、しかも、入学金も免除してもらえて……。飲んだくれの父親のせいで、紗鳥の家の経済状態はかなり苦しかったから、そんなふうに家族の負担を軽くしてあげることができた自分を、紗鳥はしみじみと、誇らしく感じた。
かつてのチームメイトたちが、眉間にしわを寄せて受験勉強に励むのを見て、自分一人楽をしていると思われるのがイヤで、勉強のほうも、必死で追い込みをした。
「入学できるって、もうわかってるくせに、スゲーいやみー。」
なんて、遠くから聞こえてくるたびに、ちょっぴり罪悪感を背負いこんだりもしたけれど、そのおかげで、もしかしたら、まともに入試を受けてもまぐれで入れることもあるかもしれない、くらいまで、成績を上げておくことができた。
そんなふうに、何事にもまじめで、善意で、努力家の紗鳥だった。
無事に合格して、入部して。
なんだか、雰囲気がぎすぎすしているような……と思ったのは、勘違いではなかった。
部内にはもう、何世代にも渡って脈々と受け継がれて来たらしい、部長派・対・エース&マネージャー派の派閥があり、先輩、後輩の上下関係がやたら厳しく、練習には、明らかにバレーボールの上達にはなんの貢献もしなさそうな、懲罰的なメニューが種々、組み込まれていた。
入部後すぐ、『個人面接』と称して、2、3年生が、新入部員をひとりひとり、ロッカールームに呼び入れていった。現在、つき合っている男子の有無。過去につき合ったことのある男子の数。今、好きな男子の学校名と学年と名前。いないなら好きなアイドル、または好きな二次元キャラ。初潮年齢、生理の周期や生理痛の重い軽いに至るまで、ありとあらゆるプライベートなことを、根掘り葉掘り質問された。
輪になって立ち並ぶ先輩たちに見下ろされながら、冷たいリノリウムの床の上に正座して、
「内田さん、処女?」
と、尋ねられた瞬間の、はあ!? という衝撃は、多分、一生もののトラウマになると思う。
その数日後に、スカウトしてくれた監督が辞任した。
卒業した部員にセクハラしていたらしい、という噂が、まことしやかに流れた。いや、本気で交際していたのだ、という向きもあった。
紗鳥には、どっちでも同じだった。スパルタ監督がいなくなり、後任がやって来るまでのほんの短い期間で、部員関係は、ガタガタに崩壊した。そして、まだどちらの派閥に入るかを決められずにいた、おっとりしてどこか融通の利かない紗鳥は、格好のスケープゴートになった。
ばらばらになったチームが、再び結束するために。
全てのケガレを引き受けて、排除されるべき、ある意味、神聖な役回り。
突然、視界の真ん前に、古ぼけた木製の扉が現れて、紗鳥は慌てて足を止める。
はげだらけの白いペンキ。いかめしいライオンのドア・ノッカー。つやつや光る、真鍮のノブ。
ホイッスルに怯えて、無意識のうちに駆け出してしまっていたらしい。髪や制服のあちこちに、あの白い花の萎れた花びらや、ちぎれた葉っぱがくっついている。腕や、臑に、ひりひりと細いひっかき傷が無数にあるのは、あの鋭いトゲに引っかけたのだろうか。
胸がどきどきする。
かん、と真横から差し込んだ真っ赤な西日で、こめかみにきりきりと刺すような痛みが走って、紗鳥は思わず、ふらふらとその扉に寄りかかる。そして、ノブを回して、開く。
ぎいいいいい……と、蝶番が軋んだ。
ひんやりした空気。あまりの明暗の差に、一瞬、目が見えなくなる。ぎゅっと瞑って、ぱちぱちと瞬いてから、辺りを見回す。
石畳のホール。右の壁際に階段があり、それを登った先の二階には、このホールを三方から見下ろす回廊が張り巡らされている。時代がかった欄干。
突然。
「さるーっ……!」
ひっ、と悲鳴を飲み込んで、紗鳥は顔を上げる。え、なに? 誰? 猿? 去る? どこ?
「ちーん……!」
奇声の出所を、ようやく発見する。二階の左側の回廊のいちばん端。
なにか、おかしな格好をした生き物が、細い欄干の上に、片足だけで立ち上がって、おかしなポーズをとっている。
これは、夢だ。幻だ。あたし、ストレスで、頭がどうかなっちゃって……
と、現実を否定する暇もないうちに。
「ばんこーっ!!」
それは、欄干の上からジャンプして、紗鳥の頭上に襲いかかってきた。
真っ赤な鶏冠のついた、巨大な頭部。多分、4頭身くらいしかない。真ん中についた金色のとんがりは、鼻なのかくちばしなのか。目の代わりに、ぽっかり開いた空洞。
「ぎゃああああああああ」
こんな声、生まれてから今まで、一度も出したことない、というくらいのパニクった悲鳴をあげて、しかし紗鳥は動けない。逃げる、という発想が、咄嗟には思い浮かばない。
ムンクの『叫び』よろしくほっぺたに両手を添えたまま、無意味に絶叫し続ける紗鳥の上空を、怪物が奇妙にびよんびよんと上下しながら旋回する。頭部に比べてあまりに貧弱な体の脇に、びろんと広がったムササビかモモンガのような皮膜を、ばっさばっさと動かしながら、耳障りな甲高い声で笑い続けている。
「きょーほほほほほほほ」
「うわあああああ」
「おほほほ、おほ、おーほほほ」
「ぎゃあああああ」
「あれ、なんか、誰か、騒いでないすか?」
ふいにまともな日本語が聞こえて、紗鳥は叫びながらも、必死でその声の主を捜す。
「あれが騒がしいのは、いつものことだろう。」
「いや、なんか、違う悲鳴まじってるっすよ。」
「ぴりかー? あんたまたそれやってんのー!?」
かつん、こつんと石畳を踏んで、誰かかホールの向こう、階段の影からやってくる。
たすけて……と、言いかけた紗鳥の目の前に現れたのは、
立って歩くクマと、
鋲のついたブーツを履いて、痩せた裸の上半身に鎖を巻いた、白塗り金髪逆立ち男と、
格好はうちの学校のジャージだけれど、顔が異様に長くて細くて陰気で、なんか幽霊みたいな男、
の、3名だった。
「いやあああああ」
もう悲鳴と言うよりは泣き声に近いような声をあげて、紗鳥の思考はようやく、逃げる、という選択肢にたどりつく。
白い花の降りそそぐ林の中を、右も左もわからないまま、こけつまろびつ再横断して、見覚えのある大学の学食の脇に、ぽん、と飛び出した時にはもう、5月下旬の長い日も、すっかり暮れかかっていた。
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